365 B4: 會計報吿

 アーキバス・ルビコン支部、上階。その特別な階に行くための特別なエレベーターに、スウィンバーンは乘り込んだ。階を指示するボタンは强化人間(と1名の隊長)しか反應しないやうになつてゐる。つまり、本社の主立つた上役が來ても、スネイルの作戰室には入れないといふことだ。そもそも幹部がこんな邊境の惑星ほしに來るわけはないのだが、時たま自分の目で視察したいと言ひ張る物好き——もとひ、物分かりの惡い者がゐる。そんな時は、隣に立つてゐる第1棟に通す。
 自分の足音しか聞こえない廊下の奧、彼はよく見知つた人影を見つけた。その隊員の前で立ち止まると、ふたりは揃つて敬禮した。
「ヴェスパー6、例の作戰はどうだ?」
「……滯りなく」
「了解した」
 インターホンで訪問を吿げる前に、彼は深呼吸して、思考を整へた。これはメーテルリンクとのささやかな取引だ——コーラル調査部門に屬する彼女と、部隊の會計を管理するスウィンバーンは、報吿內容の性質上、直接スネイルのもとを訪ねることが多い。故に、先に來た方がその日の上官の機嫌を傳逹する。「上々」なら上機嫌、「滯りなし」なら普通、「遲れが生じてゐる」なら危險信號、「白紙撤回」なら……。幸ひ、今日は「滯りなく」だ。ありのままを上申しても良いだらう。ただし、スウィンバーン個人に、𠮟責がある場合を除く……。大丈夫だ。そんな覺えは無いはず。
 彼は腦波に亂れが無いことを確認して、インターホンに觸れた。「第7隊長スウィンバーン、報吿に上がりました」
 ランプが靑色に點燈し、入出許可を示す。スウィンバーンは身體を折つて入る。もう何年も繰り返してゐるにもかかはらず、彼はこの瞬間に慣れない。いきなり怒號を飛ばされやしないか、あるいはモニターいつぱいに解任通知が出てゐたらどうしよう、などと考へてしまふ。いや、解任ならまだ良い。まだ良い……自分に居場所はあるのだから。その不安のために、今日のやうな、まとまつた報吿のある日の前後には休眠スリープモードに入れない。「休み」がろくに取れないのはいつものことだが、それ以前に、中樞神經が休止を拒絶するのだ。もつとチェックを! もつとチェックを! 見落としがあるかもしれない! 彼は一日のルーティーンが終はると、地下の會議室B2を獨占して、ファイルを片つ端から開く。そこで「ほれ見ろ」とばかりに、些細な間違ひを見つけるのだ。それは金額の桁だつたり(大慘事だ)、臺帳の番號間違ひだつたり(混亂の元)、積算證憑の拔け(再提出だ!)だつたりする。ヴェスパーは强化人間の精銳部隊だ。アーキバスを映す鏡だ。そして金の流れとは部隊を巡る血液の流れ、詰まれば死に直結する大問題なのだ……このやうな大役を任されてゐる自分は、なんと赫々かくかくたる存在か。ヴェスパーでの地位ナンバーが低いのは、この大役に專念しろといふ、スネイル閣下のご意向に他ならない! ……スウィンバーンは、さう解釋してゐる。
「おはやうございます、スネイル閣下」午後9時29分。外は吹雪、室溫は23℃。彼は中央のコンソールに步み寄ると、備へ付けのケーブルを頸部のコネクタに接續した。モニターが點燈する。盜聽防止の行き屆いた、いささか前頭部が收縮する感覺を伴ふ帶域を使つて、スウィンバーンはファイルを展開した。特注の神經接續器が設置されたこの部屋はスネイルが管理する執務室のひとつだが、實は本人はここにはゐない。どこか「祕密の部屋」で作戰を考へてゐるのかもしれないし、2番ガレージでメインシステムにログインしてゐるのか、はたまた本社のオフィスにまで「飛んで」しまつたのか、スウィンバーンには——アーキバスの誰も、多忙な實質的總指揮官、スネイルのスケジュールを知る者は無かつた。しかし「本體」が無くとも、我らが第2隊長は、そこに同席してゐるかのやうに、部下たちの振る舞ひに影響を與へることができる。
「ご報吿いたします、閣下」
「受領しました、ヴェスパー7。また、隨分と細かな仕譯ですね……」
 はは! 閣下も感心なされてゐる!
 第7世代が2時間半、「ニューエイジ」が1時間掛けて讀み込むところを、スネイルはたつたの數分で要點を拾ひ上げていく。
「……この、テスト個體の仕入れ」と、324の行が抽出される。
「はい、これは額がそれなりでしたので、適宜……」
「こんなものは『雜費』で良い。それから、餘剩金です」
「さうなのです! 私も日頃より節制節制と指導してはゐるのですが」
「なぜこれ程に餘らせる? 使ひ道が無いならさつさとファクトリーに回しなさい」
「はっ……しかしファクトリーの收益率は……」
 思はしくない。前線に投入できる「機體」は、今のところひとつとして無かつた。
「本社には吐いて捨てる程の金がある。『投資』をしないのは愚か者の選擇です」
 當然、スネイルは本社の經營狀態を知つてゐる。といふのも、彼個人がアーキバスの投資家だからだ。スネイル閣下は優秀な軍人といふだけでなく、賢い資產家でもあるのだ。だがスウィンバーンの知る限り、彼は基本給と役職手當しか受け取つてゐない。それはそれで破格な額ではあるが、そのほとんどに當たる額を、再敎育センターとファクトリーに「施して」ゐる。とてもアーキバスに投資する餘裕があるとは思へない。やはり個人的な雜收入——資源の豐富な惑星にでも土地を持つてゐるのだらうか? 身內の遺產? アーキバスグループの配當金? パトロンでもゐるのか? スネイルの收入源は不明だつたが、彼が何に投資してゐるか、は誰もが知るところだつた。肉體の强化、敵性勢力の敎育、兵器の開發。興味關心がアーキバスの「事業」と合致したことで、スネイルの公私は融合してゐるかのやうだつた。仕事をしてゐるにもかかはらず、個人の愉しみを追求してゐるやうにも見えるのだ。アーキバスは部隊の强化に金も資源も惜しまなかつた。純粹な實力主義のもと、魅惑的な戰力は全て「取り込」んでゐた。
 金の使ひ方、と浮かべて、スウィンバーンは頭痛の種を思ひ出した。
「『特例パーツ』の件ですが」と、ロックの掛かつたファイルを開く。シートに在庫とウィッシュリスト、最終的な發注候補、槪算が續く。
「調整は濟んだはずです」
「『壁』を前に心變はりがあつたらしく……」
「全く、彼には呆れますね。納期は?」
「2ヶ月……いや、もしかすると3ヶ月……」
「話にならない。言つておいて下さい、猶豫は與へました、と」
「わっ、私がですか!? そこは閣下が」
「リストの管理者は貴方です、スウィンバーン。貴方が申請した豫算であれは遊んでゐる」
「そんなっ……」
 なんといふ不條理……。言つたところで何も變はらないのは目に見えてゐる。そもそも「遊ぶ」のが第1隊長の仕事だ。機體の調整に夢中になつてゐるフロイトを見ると、スウィンバーンは羨ましい氣持ちにすらなる。神經接續にも劣らない手動でのコマンド入力、適切な間合ひの判斷、スペックを最大限に活かした火氣管制制御。シミュレータで敵を薙ぎ拂つていく樣は爽快だ。人の話を無視したり、トレーニングプログラムのサーバーを燒いたり、敵性企業のパーツを使つたり、いくらか指導を要する點を除けば、この眞人間に言ふことは無い。人間の限界を體現する、生きた標本みたいな男に金を出せて、本社も誇らしいことだらう。
 また「手土產」を繕はなければ。スウィンバーンはファイルを閉ぢた。
「さうだ、例の採掘艦はどういたしませう?」
「シュナイダーは攻略の當てがあるとか。片付けは彼らに任せます」
「あんなものを……? 先方の戰力で足りませうか?」
「『掃除』は彼らの仕事です。當面の目標は『壁』であること、忘れないやうに」
“配慮”は無し。まあ、ダメならまた第1隊長を投入するだけだ。
「はっ、了解いたしました。……シュナイダーと言へば、近く人材公募がありますが」
「どうでした、動物園は」
 スネイルのひけらかす語彙にはもう慣れてゐたが、何かがぞくりとする感覺は直りやうもない。「あの人事部門のもつたいつけた樣子からすると、はい、さうなるかと」
「それがゴミであれけだものであれ、歡迎はしませう……」
 スネイルが舊世代型の“招聘せうへい”を根に持つてゐることは明白だつた。彼自身も再手術を繰り返してゐる手前、“リサイクル”した舊世代型の性能に文句を付けるわけにはいかないのだ。尤も、スウィンバーンはあの手術の成否については疑念を持つてゐる。第3隊長が滅多に姿を見せないのは、單に多忙といふだけでなく、重篤な後遺症を隱してゐるからではないか、と。舊世代型に對する實驗データは多くあるが、第2世代と第9世代では開きがあり過ぎる。それに、人間の肉體に殘留したコーラルの除去について、スウィンバーンは懷疑的だつた。そもそもコーラルを腦深部に埋め込むこと自體がどうかしてゐる。正氣を保ててゐるかさへ定かでない——だが、同僚が何者であれ、仕事さへできてゐれば、スウィンバーンはそれで良かつた。ヴェスパー3は寡默な男だが、部隊に有益な情報をもたらしてゐる。豫算にもケチを付けない。理想的な諜報員だ。
「第4隊長か……」
 スウィンバーンはひとりごちた。空いてゐた第4隊長の擁立と新たな第8隊の編成は、昨年末、上層部が投下した爆彈だつた。豫算が增えると言へば聞こえは良いが、實際にはコーラルを早く回收して來いといふ發破だ。ひとりはアーキバスから出し、もうひとりはシュナイダーから出す。シュナイダーは自分の身內からヴェスパー隊長を輩出したといふ實績が欲しいらしい。いつになく意欲的な彼らに、會議室の雰圍氣はしらけてゐた。公募プログラムは例の動亂以降久しく行はれてゐなかつたが、人事部長は適任が必ず現れると言つて讓らなかつた。今頃になつて、シュナイダーが欲を出すとは思へないが……スウィンバーンには厭な感觸が殘り續けてゐた。だが、それがどんな駿才にしろ、第1隊長と第2隊長を搖るがすことは無いだらう。“番狂はせ”は起きないはずだ。
 前第4隊長の「事故」について、彼は引け目を感じないでもなかつたが、何事にも失敗は付き物だ。これは當人も、スネイル閣下も納得盡くのことだつた。その姿を認めてやつたのがせめてもの禮節だ。新しい隊長は……彼もまた、向上心の强い人間だと良い。その方が面白くなる。
「あっ」向上心と言へば、これも忘れてはいけないことだ。
「スネイル閣下」スウィンバーンは誰が見るともなしに、手を揉んでゐた。「我が部隊の功績ある者について、特別手當を出したいと考へてゐるのですが」
「好きになさい。せいぜい餌を與へることです」
「感謝いたします。これでますます部隊の士氣は上がることでせう!」
 やはり閣下は分別があられる。
 スネイルが添付資料の修正箇所にフラグを立ててゐる間、スウィンバーンはローカルの帳簿を始めから讀み込んでゐた。いつどんな彈が飛んできても、回避するためにだ。默つて何もしないでゐるのが居た堪れないといふのもある。そしていつものやうに、この頭の中の手慰みは、さう長くは掛からない。
「ではファクトリーの件、賴みましたよ、ヴェスパー7」
「お任せを、閣下!」
 相手が退出し、スウィンバーンも通信を切る。
「ふぅ、終はつた……」
 今回は問題なく承認されさうだ。本社の監査役はうるさいが、スネイルには敵はない。現場には現場の堅實な判斷があるのだ。肩の力が拔けていく。「雜費」の置換とか、ファクトリーへの送金とか、上官への手土產をこさへるとか、處理しなければならないことは何點かあつたが、襃賞ボーナスの許可が下りたことにスウィンバーンは氣を良くした。
 頸部のケーブルを拔くと、ずつと頭を締め付けてゐた感覺から解放された。この帶域は第7世代には向かないが、設備の後方互換性は望むべくもない。長時間に及ぶなら遠慮したいところだが、まあいい。いづれにしろ、相手がスネイルでは、神經が過剩に反應して仕方ないのだ。昨晚からの疲勞も相俟あひまつて、スウィンバーンはコンソールに手を付いた。自室に還つて、休まなければ。そのための時間は確保してゐる。いつ出擊するともしれないのが、椅子にふんぞり返つてゐる會計管理者との違ひよ……。
「おわっ」
 ドアが開くと、人が立つてゐた。
「シックス」
 彼は咳拂ひをし、廊下に出た。
 どうした、と問ふ前に、メーテルリンクはぬるりとスウィンバーンに近付いて來た。
 華奢といふにはしつかりしてゐるが、厚いといふにはすらりとした線。隊服に身を包んでも彼女は周圍の視線を集めたが、スウィンバーンはこの婦女子に前に立たれるのが好きでなかつた。
「これをお忘れでは?」
 彼女が持つてゐたのは眼鏡だつた。スウィンバーンはそれを受け取つた。「……ご苦勞」
 彼は眼鏡デバイスを印象操作に利用してゐる。たまに內外の經理擔當者や本社のオフィスへ出向くので、非强化人間と「馴染む」ことを考へてだ。着用してゐると、多少は顏の印象が和らぐ。目立つた手術痕があるわけでも、元の顏と甚だしい相違があるわけでもないが、唐突にぶり返す「喪失」が、彼に恥を搔かせるのだ。だから和らぐのは彼自身だ。他人に對しては寧ろデメリットの方が大きく、印象が輕薄になるが故になめられたり、市販のビジネススーツなど着てゐると、部隊でも彼と氣付いてもらへないことがある。「ああ、第7隊長、貴方でしたか」あのスネイルまでもが、だ。
 スウィンバーン本人としては、意識して掛けたり外したりしてゐるつもりはなかつた。だが、メーテルリンクが持つてきたといふことは、どこかに置き忘れたやうだ。……まあ、どうでも良いのだが。
 彼は眼鏡を上着のポケットに入れると、胸を張つた。
「スネイル閣下だつたら『滯りない』ぞ」
 メーテルリンクは相手の顏を見た。「『指導』の見學をと考へてゐましたが……お加減でも?」
「は、さうだ、新人が來るんだつた」
 私としたことがっ。この波長の亂れたあたまで試驗場まで行く。無理なことではないが……。肝心の第8隊長は今日だつたか——さう、手術が延期になつたせゐだ。醫者といふのはいつも約束を守らない。
「宜しければ……私が代行を」
「貴樣が?」
 思はぬ助け船だつた。だが、賴りない船だ。機能としては申し分ないが、一度も出向したことの無い船に身を預けられるかと言へば、スウィンバーンはさうでない。
「よせよせ、簡單に見えるかもしれんがな、これは大任なんだ——これで隊の印象かたちが決まる。新人だけの問題ではないのだ」
「第7隊長、私は就任して3年になります」
「さうだつたか」だるさを隱す氣にもなれない。
「あなたの『歡迎』を受けた覺えはありませんが」
「決算があつたからな」
「私はアーキバスを體現する存在でありたいと思ひます」
「……」
 なるほど、間違つてはゐない。メーテルリンクのひたむきさと忠誠心、仕事に對する愼重さは彼も見てきた。少々生意氣なところがあり、踏んでゐる場數が少ないきらひはあるが、若い兵士では最も「模範的」と言つて差し支へない。久々に「指導」するといふ意味でも、任せてみても良いかもしれない。
 スウィンバーンは「指導の指導」を試みることにした。
「貴樣にこれを貸してやらう」
 スウィンバーンは腰に插してゐた警棒を引き拔くと、メーテルリンクに渡した。ACの兵裝と同じく、それは“敎育”用のスタンバトンだつた。强化人間の手でひねれば、動きを封じるには充分の電流が流れる。
「何事も最初はじめが肝心だ。どんなに新しくても、甘やかすな。重點は禮節、忠誠、分別だ。分かつたな?」
「はい、スウィンバーン」
「宜しい!」
 ありつたけの聲を吐き出して、スウィンバーンはメーテルリンクを送り出した。見送つた背中に一抹いちまつの不安が驅け拔けても、もはや手遲れだ。
 バトンは確かに繫いだ。あとは休むだけだ……