363 B4: いつものこと

「この仕事はやりがひがあるよ。なんてつたつて、一番忙しい部署だからね!」
 ヴェスパー第5隊長はさう言ふと、新人にタブレットを渡した。
「さあ見てご覽、これが私たち輜重部門が管理してゐる全在庫、必要なもののリストだ」
 さう說明してゐるうちにも、入力欄の數字が增えたり減つたり、項目の文字が赤くなつたり半透明になつたりしていく。物資はコンテナとパッケージに付けられた無線周波數RFタグによつて管理されてゐた。
「問題はこれを定刻通り調逹して送り出させるかつてこと。ぢや、手近なところから見て行かうか」
 ホーキンスはつかつかとエレベーターに乘つて5番ドックまで行くと、MTが所狹しと竝べられ整備されてゐる、中央の黑い機體のつま先をノックした。「ピカード」ややあつて、男の黑い頭が、コックピットのハッチから「ひよつこり」と現れた。「大將、こりや間に合はんぜ」
「どうした」
「システムが……うごかねえ。エンジンもうごかねえ。OSを入れ替へてもFCSがイカれたまま……ここにあんのはガラクタだけだ」
「それと報吿書レポートが上がつて來ないのはどう關係してる? ピカードはどうしたんだよ!」
「あいつは腹がへ……ぢやなくて、腹が壞れたんだ。いや、マジな話。先生んとこ行つてみな」それからひよいとバイザーをずり上げた。「……そこの坊やは?」
「ヴェスパー第8隊長、ペイターです。第5隊長殿の補佐官に任ぜられました」
「混沌ひしめく輜重部門に、ようこそ……やつとお上は第10世代を投入してくれる氣になつたんだな?」
「いや」と、ホーキンスは苦笑ひを浮かべた。「彼には傭兵の相手をしてもらはうと思つてる。この仕事は『慣らし』さ」
 ピカードの代役はどうしやうもないといつた顏をして、再びコックピットに潛つた。「『ニューエイジ』にも限界があるつてこと、誰かさんにも知つてもらひたいなあ……」
 ホーキンスはドックを步きながら、システムの說明を續けた。「發注は自動で、納品されたらこの通り輸送計畫が出てくる。注目して欲しいのは『天候』と『戰鬪多發地域』だな。マップに何も無かつたら情報部門に確認した方が良い」
 ブザーが鳴り、外から燒け焦げた空のシェルパが運び込まれてくる。
「補給シェルパを飛ばすのは結構リスキーなんだ。回收が間に合はなかつたら彈藥もリペアキットも全部駄目になつちまふし……この前なんてドーザーが湧いてたからなあ。ほんとアリみたいな奴らだよ」
 ペイターはまだドーザーを見たことが無い。ナマでコーラルを身體に入れるとは、さすが發祥の星だ。ルビコニアンの肉體は常軌を逸してゐる——逆さ吊りにして血拔きすれば、コーラルを抽出できないだらうか?
 バッテリーを貯藏した倉庫は、さながら圖書館アーカイヴのやうだつた。棚といふ棚が整然と通路を作つてゐる。「君、MTは乘れるよね?」
「勿論です」
「作業用は? スペックは同じなんだけど」と、ホーキンスは脇の部屋に入つた。短足の2脚MTが6機置かれてゐる。彼は手前の「E-2」と腕にペイントされた機體のハッチを開いた。
「この通り、神經接續機器ニューラルコネクタは無い。全部手動での操作だ。脫出レバーはここ。でも期待はしない方が良い。……質問は?」
「ありません」
 ペイターの言葉に僞りは無かつた。彼は作業用MTを乘りこなした。子供でも乘れる機體だ。ACに乘り慣れてゐると、40km/hは時間が止まつてゐるかのやうだつた。それも庫內で出せる最高速度で、作業してゐる時はほとんど動かないに等しかつた。ホーキンスはバッテリーのスキャンの仕方や廢棄手順、燃燒した時の對處法を敎へながら、雜學も付け足した。期限の切れたEN兵器の電池パックをひとつ取る。
「大昔は機體のジェネレータから直接給電してたんだ。信じられるかい? まあ、その分彈藥費かねは掛からなかつたらしいけどね」そして、變質したバッテリーの簡單な見分け方も披露した。
 また別の倉庫には、ソフトウェアのバックアップディスクが保存されてゐた。ACやMTのオペレーティングシステムもここにあり、無人機が配置を直したり補充したり、破棄したりしてゐた。ふたりはその間を縫つて、使用頻度の高い棚に移動した。
「これはシミュレータプログラムのコピーだ。ほとんどはトレーニング用だが……」
 ディスクケースのラベルがオレンジ色のボックスを引き寄せる。
「こつちは娛樂用だ。一部は依存性がある。できれば世話にならない方が良い」
 次に向かつたのはドラム罐の園だつた。つんとした臭ひが立ち込めてゐる。罐は不規則に置かれてゐるやうに見えて、實は上から見ると文字になつてゐた。「あーきばす」、だらうか? 子供じみたいたづら。
「ほら」ホーキンスは空色の艷やかな罐の前にペイターを呼んだ。
「これがロックスミスの色だよ」
「これが……」
 ペイターは息を呑んだ。なるほど、これも重要な輜重だ……
「どうだいペイター君、君の好きな色は?」
「透明、ですかね」
「はは……こりや一本取られたなあ」ホーキンスは笑つた。
 洗濯室兼リネン室は室內にもかかはらず、隙間風でコートがひらひらと搖れてゐた。ホーキンスはドアを指差した。「これ、入力できないかな。もうずつとかうだ」だが、タブレットの「設備」のタブは灰色になつてゐて押せない。メインメニューに戾ると、ペイターは「汚破損狀態」といふ項目を見つけた。選擇し、チェック項目を入力すると、寫眞を撮るやうに促されたので、さうした。「報吿」ボタンを押す。「完了しました」
 それから制服やタオルや寢具を確認した。これはRFタグが付けられてゐないもののひとつで(指揮官の位置情報漏洩防止のためだ)、管理は人間が行つてゐるが、配給自體は無人機ヘルパーで自動化されてゐる。無人機の業務記錄は正確だつたが、肝心の人間がこの記錄を「修正」してしまつてゐた。AIはどのタイミングでいくつ被服が無くなるか豫測を立ててゐたが、的中したことは一度として無かつた。ホーキンスは取り出した上着をカゴに戾しながら、ペイターを頭からつま先までざつと見た。
「私はいつも2サイズしか見積もらないんだが、どうする?」
「着用に支障が無いならば、それで良いのではないでせうか」
「さうかい? ……」
「第5隊長殿、これは不良品です」
 ペイターが手にしたのは毛布だつた。ホーキンスはきよとんした顏をしたが、すぐに肩を落とした。
「ペイター君、それはただの布だよ」
 毛布を受け取ると、端から端まで伸ばして、スイッチの類ひが無いことを確認させた。「凍結くらゐは防げる」
「經費削減ですか?」
「まあ……どこぞのエースはお氣に入りらしいよ」
 生產工場に行く前に、彼らは大⻝堂に寄つて、熱いフィーカを飮んだ。厨房のスタッフと歡談してから、ホーキンスは裏手の倉庫に入つて行つた。ペイターも後に續いたが、收納されてゐたストックはふたりに緣の無いものだつた。ペイターは罐詰をひとつ手に取つた。桃だ。甘い味覺あぢだ。「無機能の人間ヴァニティの⻝糧ですね」さう言つて表へ戾つた。
「ヴァニティね……」上官は一通り在庫を確認してから外に出た。
 雪はしんしんと降つてゐた。ふたりは作業用MTを30分走らせた。工場の煙突や室外機からは生暖かい空氣が排出され、樣々な臭ひを一帶に運んでゐた。
「一部の滋養劑、アルコール、燃料はここで製造してゐる」
 ホーキンスは試驗室のシャーレに乘つてゐた赤い物體を指ですくふと、口に含んだ。ペイターは遠慮した。
「“ミートソース”だ」もうひと舐めする。「昔は離乳⻝ベビーフードを固めてゼリーにしたやうな酷い物だつた。今は最高だよ」
 夢中になつて續けてゐると、スタッフがやつて來て、それは本物だ、と吿げた。
 工場地下1階の暖房の掛かつてゐない小部屋が、發注擔當者のオフィスだつた。元醫師の榮養士は机に足を乘せ、鼻をほじつてゐた。壁の診療臺のシーツは亂れてゐた。ペイターは氣になつてそつと觸れてみた。溫もりは無かつた。
「先生」と、ホーキンスを頭を庇ひながら部屋に入つた。「リストがまるで機能してゐないみたいなんだが」
「助手が壞れちまつてね」
 ホーキンスは助手の顏を知つてゐた。助手が發注リストを監視し、修正し、署名し、工場長から承認をもらひ、送信してゐた。面倒な一切を引き受けてゐた。
「……型落ちの役立たずだと言つたのに」
 クリップボードに挾んだ手書きの紙一枚を寄越す。「あんたらが動く程度には調整してある」
「氣付けに一杯」ホーキンスはリストを受け取ると、机に乘つてゐた琥珀色のグラスを煽つた。そして踵を返す。初老の男は手を振つた。「第2隊長に宜しくな」
 廊下に出ると、ペイターは渡された落書きに眼を落とした。「明らかに數が足りません」
「とりあへず、AIに修正させよう。自分の仕事を放棄する程、先生も無責任な人ではないさ……また次の助手がやつてくれるよ」
 基地までの歸途、今度はペイターが先頭を走つた。紅の寒空に、ルビコンの月は隱れてゐた。
 夜警の4脚型MTの脇を通り拔け、倉庫の前で停止する。タブレットを起こすと、メッセージウィンドウが飛び出てゐた。
「ピカードからメッセージが來てゐます。謝罪しますと」
「『寢言は寢てから言へ』と、返信しといてくれ」
 ペイターは返信ボタンを押すと、タブレットのマイクをオンにした。「『寢言は寢てから言へ』!」
「……」
「送信、と」
「なかなか良い仕事をするね、ペイター君。傭兵とは上手くやつていけさうだ」
「恐れ入ります」
 ホーキンスは笑みを浮かべ、次の現場へ向かつた。2時間も經つて眞夜中と呼んで良い頃、5番ガレージで工具の點檢をしてゐたホーキンスはわ、と聲を上げた。機體の整備記錄を讀んでゐたペイターは顏を上げた。「何事ですか」
「しまつた、豫備兵器スペアを忘れてゐたよ、ペイター君……」
 9畫9番目の棟番號は、闇に溶け込むやうにしてかすれて消えてゐた。豫備の彈藥は運び込まれた時と變はらない姿で、彼らを待つてゐた。これはルビコンに入植する前からある在庫だ。もし殲滅作戰があるなら使ひ切つてしまつた方が良いな、ホーキンスはそんなことを考へながら、MTの收まつたドアを、生體認證で押し開けた。照明がちかちかと點燈する。
「あれっ……こりやどういふことだ」
 空だつた。パーツのひとつさへ轉がつてゐない。
 すぐさま作業用MTのシステムから履歷を確認するが、格納されてゐた機體を使用した記錄は無い。
「これは……」回線を開かうとしたところで、擔當者のMTがのろのろと坂を下つて來た。
「隊長。奴らですよ」男は隊員とコールサインが紐付けされたリストを開き、ホーキンスに送つた。「出任せの出擊ですよ……」
「さうか」ホーキンスは受け取つたデータを、自機リコンフィグに轉送した。「スネイルには報吿を忘れるなと言つておく」
「くそっ!」
 男の發射したライフルが虛空にこだました。ペイターは在庫欄に0を入力した。


 さて、部隊には人間關係といふものがある。自分と第5隊長との關係は至つて良好だ。この一夜で確固たる信賴を勝ち得たと言へる。ペイターはさう結論した。ヴェスパー第5隊長であるホーキンスは古い人間で、彼のやうに安定した人格を持つてゐるとは言ひがたいが、上官としての感觸はさう惡くない。何よりも融通の利くところが良い。部下を評するところが良い。下を視る上司に惡い者はゐない。
 さて、部隊には人間關係といふものがある。第5隊長の評判は、この嚴格なヴェスパーにあつてフレンドリーで柔和な性格で、そこそこ良いやうだ……ただし、ひとりを除いて。
 第7隊長、スウィンバーン。覺醒して待ち合はせの展望フロアに行くと、ホーキンスはその名前を出した。「私たちは物資の過不足を把握するだけでなく、說明できなければならない」
「豫算の申請のため……ですか」
「通らないとネジ1本發注できないからね」
「なるほど」
 兵站へいたんの確保には何が必要か。金だ。金が下りなければ何も用意できない。さう考へれば、會計部門といふのは絶大な權力を握つてゐると思へなくもない。ペイターは數學が不得手といふわけではなかつたが(術後なら尙更だ)、自分の給與以外には、あまり金の動きといふのに關心が無かつた。
 第7隊長は會議室Cを占據してゐた。壁に向かつて連結された會議机に6つのモニター、通信機器、2機のコンソール。机の足元にはペダル型の入力デバイスがあるが、ペイターには用途が解らない。ドローンでも操作するのか。當の隊長の格好と來たらラフなもので、ワイシャツに腕まくりして、モニターの前で眉を寄せてゐる。着用型端末ウェラブルデバイスといふ實用性よりも、ファッション性を重要視したタイプの無機能に近い眼鏡グラスは、ペイターにして、より「型落ち」の印象を强くした。おほよそ「ヴェスパーの隊長」とは形容できない有樣だ。どうする。
 スウィンバーンは振り返り、新人を一瞥した。
「貴樣が第8隊長のペイターか。ろくなテストも受けず良くもまあ輜重に就いたものだ」
「所定の試驗には合格してをります、スウィンバーン第7隊長殿」
「硏究所の下らない性能テストか? ……まあいい。さつそくいい加減な仕事をしてくれたな」
「君は何かしたつけな?」
 スウィンバーンはモニターのひとつに畫像を表示した。昨晚ペイターが撮影した洗濯室のドアだ。
「同じ角度から何枚も撮る奴があるか。知りたいのはこの……」棒が畫面中央を指す。「破損した部分だ。全體は監視カメラで捕捉できる。それから、管理番號も間違つてゐる。規格を見てなんとも思はなかつたのか?」
「はっ、至らずに申し譯なく……」ちらりとホーキンスを見る。
「初めてだからね」上官はさらつと流した。
「遡つたが、犯人の映つたデータは無かつた。貴樣の部下は長いことフラグを立ててゐなかつたやうだな」
「他に大事なことがあつたんだらう」
「その通りだ。よつてこれは却下する。次にヘルパーがフラグを立てたら工兵でも派遣する」
 確かに洗濯室は寒々としてゐたが、そこで多くの時間を過ごすのは人間ではない。設備の管理は總務もしくは輜重部門の管轄ではあつたが、その壽命こそが經理に直結するので、會計責任者は基地の狀態にうるさかつた。
 モニターを指してゐた棒の先が、第5隊長に向けられる。
「この男は指導に手を拔くことで有名だ。第8隊長、貴樣にはこの私が作成したマニュアルを送つてやらう。第10世代なら30秒で讀める內容だ。精讀するやうに」
「了解しました」
 だが、1ページごと1秒經たなければスクロールできない仕樣であることを、ペイターは知らない。
 續けて、スウィンバーンはふたつのモニターを使つてデータを表示した。「參考までに來期の豫算案も見せておかう。質問があれば受け付ける。ホーキンス、貴樣もよく確認しておけ。會議に時間を掛けたくない」
 ペイターが入隊してから、まだ全體會議は行はれてゐなかつた。主席隊長が出席しないのはよく知られた話で、議長の第2隊長閣下がうんと言はなければ、何事も決まらないのがヴェスパーだつた。噂に聞いたところでは、ヴェスパー1は他者との意思疎通が難しい人格破綻者で、そのために本社への顏出しも免除されてゐるとのことだつた。もしかすると彼は手術に失敗した强化人間では、といふ想像がペイターの頭をもたげた。「ニューエイジ」、それも調整を繰り返した個體に匹敵するヴァニティが存在するとは思へない。もし彼に會ふ機會があるとしたら、あれこれ觸れてみよう、とペイターは思つた。手術痕は消せても、コネクタは絶對に隱せない。
「待つた」ホーキンスはファイルのスクロールを停めさせた。“糧⻝”、減額された項目のひとつだ。
「生身の連中はどうする? 醫者もゐるんだぞ」
 ヴェスパー1もゐる。
兼用⻝事ハーフに廢材の比率を增やすだけだ。大した額ではない」
「なんてこつた。……そこまで切り詰める必要があるか? 基地の改修はもう終はつただらう」
「封鎖機構に空けられた穴はまだだ。目くらましにも少なくない電力を使つてゐる。それに加へて燃料の高騰だ。もはや蘇生の餘地の無い個體を“救助”に行く餘裕は無い」
 ペイターが5番ガレージで閱覽した作戰ログによれば、スウィンバーンは2ヶ月前の“雪崩”について言及してゐる。ヴェスパー5はその救援に向かつたが、最終的に、サルベージした4體全てが「調整」の獻體としてアーキバス技硏センターに收容されたとあつた。
暖房だんに關しては空氣熱とガスでどちらが效率的か檢證してゐるところだ。殘留コーラルが上手く集まれば大分樂になる。照明も1段階落とした」
「いやあ道理で見通しが惡いと思つた。寒いしな」
「調整しろ」
 ひとつひとつの“適正價格”が分かればペイターにも簡單な見積もりはできるが、その價格を彈き出してゐるのは會計部門だ。ある作戰、兵器、移動、細々とした日用品の採算が合はないと言はれればそれまでである。燃料がと言はれれば、それは基地での過ごし方を決められたも同然だ。と言つても、ペイターは自分が無駄な動きで基地の資源を浪費するとは露程も考へてゐなかつたが。
「で……娛樂費おたのしみはちやつかり增額してるわけか。大した會計係だよ、ほんとに」
「さう感心してくれるな、ホーキンス。戰力のパフォーマンス向上に繫がる實證データがあればこそ、この私がスネイル閣下に進言を……」
「へーえ、パフォーマンス向上ねえ。第7隊長殿が一體何を再生してらつしやるのか敎へてもらひたいもんだ」
「私は何も再生してゐない」スウィンバーンは眞顏で答へた。
「な? 偉さうにしててもこんなもんだよ、ペイター君」彼は肘で小突かれた。「ひとりの時間が長いとかうなる」
「……」
 スウィンバーンは思考した。
 そして椅子から飛び上がつた。
「きっ……きつさまあ! この不屆き者、自分の目で見たことだけを言へ! でたらめな風評で私の品位を貶めるな!」
「私の目で見た限り、隊長殿は火消しに必死だ」
「當然だ! 私には流言飛語りうげんひごを未然に防ぐ義務がある」
「何も隱すことは無いのに」
「さう、隱すことは無い。身の潔白を證明できる」
「さういふことにしておくよ」
 ペイターは自分のアクセス權限を確認してゐる。基地の、あるいは本社の中央サーバーに保管されたVR端末の再生履歷や、刺激劑の投藥記錄を閱覽する權限は、彼には無かつた。恐らく、輜重部門責任者のホーキンスも同樣だ。職權に餘計な權限は認められない。スウィンバーンも等しく、まさか給與の計算に個人の嗜好が反映されるわけもない。この場で當人が所持してゐる履歷が提出されても、改竄かいざんの可能性を考へれば不毛な話で……そも、個人の行動記錄プライバシーなどどうでも良いことのはずだ。なぜこんな話になつたのか、ペイターは元を辿つた。
「第5隊長殿は、娛樂の活用に反對なのですか」
「ちつとも。君はどうかな、ペイター君? 必要だと思ふかい?」
「いいえ。私には不要です」
「賢明だな。歸投後は眠るに限る」
 ホーキンスは溜め息を吐いた。「どのくらゐもつか賭けをしよう。1ヶ月ひとつき以內に5」
「10」
 ペイターは戶惑つた。「……30? 確率パーセンテージで言ふなら90……」
 ホーキンスは靜かに笑つた。
 スウィンバーンは既に椅子に收まつてゐた。「臺帳には付けた」
「えっ……」
 これも“おたのしみ”のひとつなのか。就業規則には賭け事の禁止があつたはずだが……
 履歷は誰も見られないのだから、この賭けは自分に有利だ。ペイターは“身の潔白”を確信しつつも現實的な都合も考へてみた。90コーム。安くはないが、高過ぎるといふこともない。なんなら今すぐにでも拂へる額だ。假に倍額だつたとしても1ヶ月の收入から出せる。とすると、上官たちが賭けた額はあまりにも少な過ぎる氣がした——これは遊びだから、あるいは露呈した時の罰を輕減するため、考へられるとしたらそのくらゐだが、なに、眞面目に考へることでもない。バレたら上官に脅されたとでも言へば良い。ペイターはこの賭け事と數字を記憶領域の隅に追ひやつた。
「貴樣が關はることになる傭兵起用の豫算だが」と、スウィンバーンが再び棒を取る。「例年通りに設定したが、戰況次第では補正もありうる。どの傭兵に依賴し、報酬をいくらにするかも貴樣の業務しごとだ。土壇場になつて豫算が足りませんでした、では話にならない。作戰の難易度もさうだが、我々の都合も考慮する必要がある……奴らは自分が死ぬだけで濟むが、我々はさうでない」
「承知しました。傭兵に依賴するのはどういつた仕事なんでせうか?」
「衞兵の排除、未踏領域の調査、友軍の護衞、據點の强襲、特殊作戰の露拂ひ、なんでも。大抵はシュナイダーから要請がある。第2隊長はどうも部外者がお氣に召さないやうでね」
「金次第でどんな卑劣も厭はない連中だ、當然だらう」
 それは自分たちも同じでは、と口にしさうになつたが、ペイターは飮み込んだ。さうと信じてゐる人間との議論は不毛だ。
 ほか、豫算についての受け答へはいくらか續いた。槪ねは「いつも通り」のやうだ。
 スウィンバーンはファイルを閉ぢた。
 それから、とホーキンスは付け足す。「スペアの……」
「その件なら問題ない」
「……さうか、なら良いんだ」
「そんなことより貴樣の部隊だ。これで3度目だぞ、OSの再インストールは」
「エンジニアは外れを引いてるんぢやないかつて言つてる」
「は……貴樣の部隊だけが? 搭乘者を調べろ、ウィルスかもしれん」
「それはないよ」
調べたのか? ホーキンス、憶測で物を言ふな」
「分かつた。分かつた……今日にも調べて、報吿する。ああさうだ、第10世代のエンジニアも確保したいんだよ」
「それはおひおひだな」椅子が回轉する。「ペイター、傭兵以外の起用も貴樣の擔當か? 第10世代の兼用エンジニアを雇ふにはいくら掛かる?」
「ええと……スウィンバーン第7隊長殿ならいくらで雇はれますか?」
「私か」存外、嬉しさうな響きがあつた。「手當を拔きにして年間……いや、どうだらうな。貴樣次第だ、第8隊長。出始めた製品に投資する馬鹿はゐない……給與明細はしつかり確認しておくことだ。何をするにしろ、金が付いて回ることは忘れるな」
「はっ、勉强になります」
「ま、仕事はこれから覺えてけば良いよ」ホーキンスはペイターの背中をばんと叩いた。「とりあへず最初の仕事は終はつたんだ、フィーカでも奢るよ」
「そのフィーカもただではない」
 會話は終はりさうな雰圍氣だ。第8隊長はやつと立ちつぱなしから解放されることに安堵した。なぜ第5隊長は坐らないのだらうか。補佐官の仕事部屋がスタンディングデスクでないことを祈るばかりだ。
 ペイターは廊下まで押し出されてゐたが、ホーキンスは出て行く直前で用を思ひ出したやうだ。「猛吹雪ブリザードの件だが」
 これもまた作戰ログにあつたことだ。6日前、輜重部隊は輸送を完遂できなかつた。
「なぜ我々が『辨濟』するんだ? 不可抗力だらう」
「不可抗力だらうがなんだらうが、損失は損失だ。貴樣の部隊は作戰に失敗した。この事實は覆らん」
「さうかい」ホーキンスは手近のスチール棚を叩いた。「どこかの部隊がどうにかしてやりくりしてるつていふ時に、無駄に高性能な裝備で仕事してる部隊もあるよな」
「それはどういふ意味だ。貴樣らが身を投げ出して眠れるのは誰のお陰だと思つてゐる」
「潤澤な資金を都合してくれてゐるスネイル閣下だらう。分かつてゐるさ」
 スウィンバーンは咳拂ひした。「もう終はつた話だ。抗議は本社にでもするんだな」
「スネイルに、だろ?」
 會計責任者はそれ以上言はなかつた。消えろとばかりに手を拂つて、モニターに向き直つた。
 展望フロアに戾つてくると、ホーキンスは約束通り、ペイターに自販機のフィーカを奢つた。熱く、泥のやうに舌に絡み付く鎭痛劑は、2體の强化人間を落ち着かせた。
「みんなが命懸けで運んだんだ。しつかり味ははう——せめて私たちは」
 ただではない
「スネイル第2隊長閣下には抗議されるのですか?」ガラス窓一面に廣がる、灰と雪をかぶつた山々を眺めながら、ペイターは尋ねた。
「いや」ホーキンスは天井そらを仰いだ。「これは『些事』だよ」
 しばらくふたりは景色を前にソファに坐してゐたが、アーキバスの輸送機が視界に入ると、ホーキンスは指を差して講釋おしやべりを始めた。