364 B4: 目覚めが悪い

「だああっ」
 またしても、休眠が中断された。連続休止時間は2時間46分30秒。
 スウィンバーンはふらふらと片手を頭部に伸ばすと、バイタルシステムと接続しているケーブルを引っ張った。ゆっくりと身体を起こす。それから医療スタッフから教わったコードをシステムに送信する。これでこの「再覚醒」のログは消えたはずだ。医師の誓いを立てた男は始めは渋い顔をしたものの、いくらかの「心付け」を添えてやると、あっさりと承諾した。スウィンバーンはいつものように、自分の頭でログを確認した。問題ない、「異常」は認められず。
 テーブルにつき、パウチに入った経口補水液を一口すする。
 視界を遮断すると、今にも再現される映像。冷たい廊下。ストレッチャーの車輪が回る音。うめき声。非常口の、青いランプ……
 見たことはないはずのおぼろげな記憶。何度デフラグを重ねても消えることのないデータだ。検索して直接削除しても良いが、ルートディレクトリに近い、というところで、彼はそれをやめた。素人考えで削除して、システムファイルまで破損しては困る。そんな建前が詮索を押し留めた。と言って、これは医者に見せる程のことではない……いい加減、自分の間抜けな声にも聞き飽きた。いっそ眠っている間は声帯モジュールをオフにしてしまおうか。そんなことを考えながら、彼はシャワーを浴びた。滋養剤を必要なだけ摂取し、隊服に着換え、立ったまま携行兵装に異常が無いことを確認する。無線ネットワークからワークステーションに接続。スケジュールを確認。メッセージを確認。出撃要請を確認。——変化なし。
 休眠終了予定時間まであと3時間19分もある。
 彼のつましい部屋には、「暇」を潰す道具、例えばVR端末などひとつも無かった。使用はもう随分前にやめていた。結局のところ、高度に再現された疑似体験に浸ったところで、何に触れているわけでも、何が手に入るわけでもない。ならば率直に、作戦行動の足しになるような用途に使っていれば良い。そうすれば事が終わった後の罪悪感や羞恥心に苛まれることもない。誰も彼を辱める根拠を見つけることはできないのだ。
 一方で、彼は撒き餌が隊の存続に有効なことを認めている。アリたちは砂糖の一欠片のために命を賭する。どんなに金をバラまいても、金の使い道が無ければ意味は無いのだ。バラまいている自分にその愉しみが無いというのは皮肉な話だが、それで良い。指導する者が素面しらふでなくてどうする。
「何もすることが無い」などというのは怠け者の戯言だ。点けっぱなしのモニターに引き寄せられるように、彼は椅子を引いた。
 ここに到っても、照明の輝度は上げなかった。物を見るだけの光量はモニターの輝度で確保できている。強化人間の正確な夜目は、ACに接続していなければ発揮できない——少なくとも第7世代は。彼はこの室内にいる時の暗がりを、ルビコンに来てから有難く思うようになった。この惑星ほしと来たら、残留コーラルで空が赤く染まるために、昼も夜も夕方のようになりがちだ。赤を溶かし込んだ空は、それが真っ赤であれピンクであれ、彼の精神こころを不安にさせた。昼と夜の境目、一日の終焉に向かう色。不吉、という言葉が当てはまった。空の色とは空間の色だ。背景だ。世界を取り巻く色彩だ。自分を包み込むもの。彼は強化人間が色彩に受ける影響を恨めしく思った。ただ、自分より新しい世代も同じ影響を受けているか、は判断しがたかった。みな、空の話などしない——あの漂う雲から、幾ばくかのコーラルが回収できないかという話ばかりしている。それで良い。それが正常だ。彼はもう一度、モニターに目をやった。自分が警備を担当している調査拠点とその周辺の映像だ。部下たちは変わりなく哨戒を続けている。左、右、後ろ、右、左、前……。ライトを追っていると眠れそうな気がしてくるが、それではいけない。夜警に必要なのは、変化の無さに対する忍耐力と猜疑心だ。彼は切っていた壁際のモニターを点けた。今夜はやることがいくらかある。適当な名目でファクトリーに金を回し、奔放な第1隊長のために高難易度の遊びを用意してやる。どれも後回しにはできない重要な仕事だ。
「そう言えば……」
 これもまた重要な任務を一任していたのだった。今から行って小娘の尻を叩いてやっても良いが、せっかくだ、たまには花を持たせてやっても良いだろう。
 スウィンバーンはキーボードを叩き、会計管理プログラムを起動した。アーキバスの夜深よふけは始まったばかりだ。