「だああっ」
またしても、休眠が中斷された。連續休止時間は2時間46分30秒。
スウィンバーンはふらふらと片手を頭部に伸ばすと、バイタルシステムと接續してゐるケーブルを引つ張つた。ゆつくりと身體を起こす。それから醫療スタッフから敎はつたコードをシステムに送信する。これでこの「再覺醒」のログは消えたはずだ。醫師の誓ひを立てた男は始めは澁い顏をしたものの、いくらかの「心付け」を添へてやると、あつさりと承諾した。スウィンバーンはいつものやうに、自分の頭でログを確認した。問題ない、「異常」は認められず。
テーブルにつき、パウチに入つた經口補水液を一口すする。
視界を遮斷すると、今にも再現される映像。冷たい廊下。ストレッチャーの車輪が回る音。うめき聲。非常口の、靑いランプ……
見たことはないはずのおぼろげな記憶。何度デフラグを重ねても消えることのないデータだ。檢索して直接削除しても良いが、ルートディレクトリに近い、といふところで、彼はそれをやめた。素人考へで削除して、システムファイルまで破損しては困る。そんな建前が詮索を押し留めた。と言つて、これは醫者に見せる程のことではない……いい加減、自分の間拔けな聲にも聞き飽きた。いつそ眠つてゐる間は聲帶モジュールをオフにしてしまはうか。そんなことを考へながら、彼はシャワーを浴びた。滋養劑を必要なだけ攝取し、隊服に着換へ、立つたまま携行兵裝に異常が無いことを確認する。無線ネットワークからワークステーションに接續。スケジュールを確認。メッセージを確認。出擊要請を確認。——變化なし。
休眠終了豫定時間まであと3時間19分もある。
彼の儉しい部屋には、「暇」を潰す道具、例へばVR端末などひとつも無かつた。使用はもう隨分前にやめてゐた。結局のところ、高度に再現された疑似體驗に浸つたところで、何に觸れてゐるわけでも、何が手に入るわけでもない。ならば率直に、作戰行動の足しになるやうな用途に使つてゐれば良い。さうすれば事が終はつた後の罪惡感や羞恥心に苛まれることもない。誰も彼を辱める根據を見つけることはできないのだ。
一方で、彼は撒き餌が隊の存續に有效なことを認めてゐる。アリたちは砂糖の一缺片のために命を賭する。どんなに金をバラまいても、金の使ひ道が無ければ意味は無いのだ。バラまいてゐる自分にその愉しみが無いといふのは皮肉な話だが、それで良い。指導する者が素面でなくてどうする。
「何もすることが無い」などといふのは怠け者の戲言だ。點けつぱなしのモニターに引き寄せられるやうに、彼は椅子を引いた。
ここに到つても、照明の輝度は上げなかつた。物を見るだけの光量はモニターの輝度で確保できてゐる。强化人間の正確な夜目は、ACに接續してゐなければ發揮できない——少なくとも第7世代は。彼はこの室內にゐる時の暗がりを、ルビコンに來てから有難く思ふやうになつた。この惑星と來たら、殘留コーラルで空が赤く染まるために、晝も夜も夕方のやうになりがちだ。赤を溶かし込んだ空は、それが眞つ赤であれピンクであれ、彼の精神を不安にさせた。晝と夜の境目、一日の終焉に向かふ色。不吉、といふ言葉が當てはまつた。空の色とは空間の色だ。背景だ。世界を取り卷く色彩だ。自分を包み込むもの。彼は强化人間が色彩に受ける影響を恨めしく思つた。ただ、自分より新しい世代も同じ影響を受けてゐるか、は判斷しがたかつた。みな、空の話などしない——あの漂ふ雲から、幾ばくかのコーラルが回收できないかといふ話ばかりしてゐる。それで良い。それが正常だ。彼はもう一度、モニターに目をやつた。自分が警備を擔當してゐる調査據點とその周邊の映像だ。部下たちは變はりなく哨戒を續けてゐる。左、右、後ろ、右、左、前……。ライトを追つてゐると眠れさうな氣がしてくるが、それではいけない。夜警に必要なのは、變化の無さに對する忍耐力と猜疑心だ。彼は切つてゐた壁際のモニターを點けた。今夜はやることがいくらかある。適當な名目でファクトリーに金を回し、奔放な第1隊長のために高難易度の遊びを用意してやる。どれも後回しにはできない重要な仕事だ。
「さう言へば……」
これもまた重要な任務を一任してゐたのだつた。今から行つて小娘の尻を叩いてやつても良いが、せつかくだ、たまには花を持たせてやつても良いだらう。
スウィンバーンはキーボードを叩き、會計管理プログラムを起動した。アーキバスの夜深けは始まつたばかりだ。