アーキバス・ルビコン支部、地下3階試驗場——東トイレ。
「う……ううっ……」
すすり泣きにも近い聲は、“敎育”に耐へかねた隊員の吐露にも、腹痛に見舞はれた苦痛の喘ぎにも取れた。だが、聲の主はさうした「間拔けな」見た目など氣にも留めなかつた。
「ヴェスパー第8隊長……ペイター……抗しがたい響きだ」
ペイターは拳を握り込んだ。彼に淚や鼻水といつたものがあつたなら流れ出てゐたらう。これだけ打ち震へてゐても、腦波は靜かな水面を描くだけだ。といふのも、この極めて情緖的な發露は强化人間システムの「不調」ではないからである。
第10世代被驗者の中でもとくに「安定」した人格を持つと認められた彼は、醫師たちのお氣に入りだつた。彼らの推薦により試驗期間は短縮され、實戰經驗が乏しいながらもヴェスパー第8隊長の拔擢を受けた。そのやうな狀態から指揮官が務まるかどうか、第2隊長とアーキバス技硏が檢證の必要性を訴へてゐたからだ。コーラル代替技術の成熟した最新世代の强化人間であれば、經歷や年齡が若くても波風が立ちにくい——そのタイミングが今だつた。この試みが「優良」の結果を出せば、戰力のコストパフォーマンスは一氣に跳ね上がる。ペイターはACの操縱技能について良いスコアを叩き出し、從順な性格を評されてもゐたが、彼自身の實力で隊長職に就いたわけではなかつた。
ペイターはもう一度鏡を覗き込んだ。無表情の靑白い顏が映つてゐる。もはや、先程まで與へられた地位に感極まつてゐた男はどこにもゐなかつた。彼は少しだけ、微笑してみせた——この微妙な表情の違ひが周圍の人間に與へる影響、彼は理解してゐる。愛想といふ武器は、强化人間が多くを占める環境にあつて、未だに有效だ。
「私はアーキバスだ」
彼は深奧に刻み込まれた訓を聲に乘せた。この言葉を唱へると、意識がどつしりとどこかに着地するやうな、懷かしいやうな、自分が企業の一部といふ感慨が湧いてくる。そして冷靜でゐられる。歸屬をはつきりとさせられる。
さて、時間だ。「案內」は第7隊長スウィンバーンがしてくれるといふ。部隊に數少ない型落ち世代ださうだが、隊長職に留まつてゐる以上、實力者であることは確かだ。吸收できる點はいくらかあるだらう。
ヴェスパー第8隊長ペイター、これより着任する。