299 B4: 10を聞いて1を識る

「急用か?」
「いいえ。出直しますか」
「10分待て」
 メーテルリンクは客間のソファに坐つた。獨立傭兵が回收したデータを査定してもらふためだ。既に「評價」の程は作戰部門から受け取つてきた。あとはこれに會計部門が値段を付け、傭兵起用擔當經由で傭兵に送金するだけだ。データ自體は送信濟みだが、この部署にはオリジナルのコピーディスクを渡さなければならない。“たまたま”近くに用があつたので、彼女が足を向ける運びとなつた。一見すると時間の無駄に思へるが、ちよつとした雜談が情報收集や氣分轉換になることを、彼女はこの數年で學んだ。
「ああメーテルリンク。お前さんの上司に言つてやつてくれよ、祕書にこんなことさせるなつて」
 初老の第7世代强化人間は顏をしかめながら、何度もガチャガチャとキーを連打した。「rとn、5と6を結合させるには一定の技量が要る。これが俺の“遺傳子”だ」よく分からないことを言ひながら。
「いいか、貴樣の手落ちだぞ、グリフ。私の仕事を增やすなっ」
 スウィンバーンは生體認證でキャビネットを開けながら、何枚ものディスクを小脇に抱へた。數十分前の歸還に加へて、この慌ただしさだ。彼女は事務つくえ仕事を溜め込んだことは無かつた。故に、なぜこのやうな混亂が起きるのか、不思議でならなかつた。豫定通りにいかない、といふことはどこの部署にもあるが、恐らく——會計部門は外部との連携が必須になるためだ。發注した品が屆かない。期限になつても請求もしくは支拂ひが無い。擔當者と連絡が付かない。契約書を送つても返事が來ない。どれも內部であつたら有り得ないことだ。責任の所在に手が屆かないもどかしさ。ストレスの多さうな部門だ、彼女はここを訪れる度にさう思ふ。
「あと1ヶ月もすれば若くて新鮮な祕書にありつけるぞ」
 グリフはフィーカをふたつ淹れると、ひとつをメーテルリンクの前に置いた。もうそれなりの付き合ひなのに……。彼女はいつものやうに湯氣の立つフィーカを見つめた。「かういふのは習慣クセになる」興味本位で空のテーブルに向かつて質問してみると、スウィンバーンはさう答へた。それから彼女も、口にしないことに決めた。補給は一定のタイミングにした方が安定する。
「おつと。本日23回目のラヴコールだ」
「取る」
 通信がスウィンバーンに轉送され、彼は話し始めた。相手は眞人間で、安全で快適なオフィスから出たことの無い人間だ。4年前までは彼女も眞人間さうだつたにもかかはらず、その手の人間がすつかり苦手になり、共感などできなくなりつつあつた。無力でありながら權力を振りかざす無能ヴァニティたち……スネイルが辟易するのも分かる。彼女が第7隊長に敬服するとすれば、これの相手を日常的にこなしてゐることだ。しかもへりくだつて。
 脇に抱へてゐたディスクを置いて、スウィンバーンが奧の部屋から戾つて來た。
「……では祕書が忘れたんでせう。ええ勿論、よく言つて聞かせますよ。直通のナンバー? そんなものあるわけないでせう。作戰時間を報せる馬鹿がどこにゐます? はあー……さうですか、それは大變でしたね。でも、頭を擊ち拔く前に引き繼ぎはちやんと濟ませて下さいね。では、お疲れ樣でした」
 スウィンバーンは通信を切つた。
 指揮官は部外者に明かすリアルタイムチャンネルを持つてゐない。コールをうつかり取つたり取らなかつたりすれば、作戰時間が割れてしまふからだ。部外者は——非戰鬪員は、軍人の使命おもみを理解してゐない。だが、スウィンバーンは敢へてその重みを伏せた上でビジネスを進めてゐる。それとも彼の印象に重みといふのが無いのか、非强化人間にとつてはとつつきやすい存在らしい。メーテルリンクは彼が上層部にどう呼ばれてゐるか知つてゐる。“スネイルのかばんもち”。
「集會の件でいくつか連絡が來てるぞ……CZAシーザつてのに心當たりは?」
「ファーロンの下請けだ」
 スウィンバーンはメーテルリンクからディスクを受け取ると、端末に差し込んだ。
 ふひひ、とグリフは笑ひを漏らした。「お前のカラダに興味があるらしいぞ。色仕掛けができるとは知らんかつたな」
「テスト個體の世話をしてゐると言つてゐた。そのくせ私が强化人間さうとは見拔けなかつたが……なんだ。次だ、グリフ」
「これはアーカイヴしとく」祕書はメーテルリンクにウィンクした。「……うーん、他は面白くないな」この祕書の仕事はこんな感じだつた。つまり、メールボックスの整理はスウィンバーンの擔當といふわけだ。
 數分の間キーボードを叩く音だけが續いた。回收データの精査が終はると、スウィンバーンはディスクを梱包して「檢證濟」のマーキングをすると、靑いコンテナに入れた。メーテルリンクの前に坐る。「處理は完了した」
 彼女は禮を言つた。頭の中で最近の出來事イベントが列擧される。事前に考へてきたはずだが、先程の「面白い」話で集中が殺がれてしまつた。勿論、「集會」の話はしない方が良いだらう。となると、もう少し遡つた方が良い。
「さう言へば」と彼女は切り出した。「近々シュナイダーの公募プログラムがありますね。隊長はご出席されるのですか?」
 どうなんだ、といふ視線が祕書のデスク越しにも傳はつてきた。既に選考委員會から連絡は來てゐるのだらう。
 スウィンバーンは溜め息を吐いた。「正式な決定ではない。まだ」
「またスネイル閣下の代理か? 彼の祕書ぢや駄目なのか」
「あの方はヴェスパーの次席隊長だぞっ。それを番號付きでもない隊員に任せられるか」
 メーテルリンクは考へてみた。フロイトは當然闕席、オキーフは“多忙”、ホーキンスは失言の前科があり(上層部の愚癡が漏れてゐた)、新人のペイターには荷が重い。となると、殘るのは彼女とスウィンバーンだつた。メーテルリンクは意欲が無いわけでなかつたが、問題は選考が終はつた後の「付き合ひ」だつた。彼女に披露できるのは、ACの操作技術と、擔當部署で學んできた知識だけだ。他人を「愉しませる」機能は無い。不思議だが、スウィンバーンも彼女と同樣に冗談が言へず、噓が吐けないにもかかはらず、彼には場に「馴染む」機能が備はつてゐるやうだつた。夜警と同じやうに、ぢつと待つて「耐へる」ことが彼の仕事なのだ。
「しやうがない。スネイル閣下が仰るなら……」
 メーテルリンクは手を合はせた。「素晴らしいことです」
「さうだな。素晴らしいことだ……」
 スウィンバーンは安堵とも疲勞とも取れない笑みを浮かべた。メーテルリンクはこの顏をよく眺めた。なんとなく面白い。
 グリフは席を立つと、メーテルリンクの前に出した、冷めたフィーカを飮み干した。
「見習ひの奴、遲いな。ちよつと見てきても良いか?」
「分かつた。貴樣の散らかした仕事でも片付けておかう」
「私も失禮します」
 彼女は祕書と一緖に執務室を出た。彼はふらふらと步いてゐたが、廊下にベンチを見つけると、すぐに坐り込んでしまつた。彼女は隣に坐つた。
「退任しようと思つてる」
 それは「通吿」だつた。
「……前線に復歸を?」
「俺はもう前線おもてにや出られない。そりやトレーニングはしてるよ。でも駄目だ。もう長いこと人を殺してない……いや、間接的には殺してるかな。金が人を殺すのは本當だ。帳簿も人を殺す。契約書もな。たつた一度の買ひ物でも。……ただ感觸が無いんだ。俺は今自分が兵士と言へるかどうか分からない」
「內勤を辭退する。前線にも出ない。となると、あなたは何をするのでせうか」
「あいつにも何のためにルビコンに來たんだと言はれたよ。でも考へてみてくれ、俺は正しく扱はれなかつたら、どこにゐたつておんなじなんだ。役立たずさ。これ以上の虛無には耐へられない。俺は殺したいんだ。殺したいんだ」
 グリフは決して「失敗作」ではなかつたが、ACの操縱技能は適正ぎりぎりのレベルだつた。使命を果たしたいといふ心意氣はあつぱれだが、果たす前に人格にほころびが出たやうだ。事務仕事に徹したことの無いメーテルリンクには、それがどれ程の苦痛、影響を受けるのかが理解できなかつた。確かに强化人間はACの操作に特化された存在だが、それはそれだ。他の業務も充分にこなせるスペックがある。少なくとも、コーラル代替技術世代は……
 老境、時間の經過が人格の劣化も招いてゐるのかもしれない。彼女の部隊にグリフ程の老人はゐなかつた。
「俺は心底、俺をこの仕事に就かせたあいつを恨むね。あいつが俺を駄目にした。……次は? ストリクス10は上手くやるだらう。でもいつまで? みんなが機體に接續してゐる時、俺は何をしてゐる? モニターに縛り付けられるならまだ削られていくAPを眺める方がマシだ」
「先程あなたは前線には出られない、と言つた。言動に矛盾が生じてゐます。休んだ方が良いでせう。そして然るべく……」
 將來、スウィンバーンやホーキンスがかうなつてしまふとしたら、恐ろしいことだ。だから、やはり、再手術は早く受けた方が良い。それがアーキバス、部隊、彼らのためだ。私たちはアーキバスだ。
「部外者に內情を漏らすのは感心しない」
 彼女ははつとして顏を上げた。非常燈の暗がりから出てきたのは、ストリクス1、第7隊の副長に收まる男だつた。彼も1時間前、第7隊長と一緖に出擊してゐたはずだ。メーテルリンクはあまりこの男を知らない。第8世代强化人間、どことなく陰があり、寡默、從順と、見て分かることしか。スウィンバーンが好みさうな人種ではある。餘計なものが無く、目を引かない。夜を支配する部隊にはうつてつけの人材だらう。
 メーテルリンクは身構へたが、ストリクス1は何も續けなかつた。グリフは背中を丸めてうつむくだけであり、何かに怯えてゐるやうでもあつた。ストリクス1は彼らの前を通り過ぎると、向かひの壁に背を付けた。
 それから彼らは5分以上も待たされた。
「グリフ! これで宜しかつたでせうか」
 隊員は驅け寄り、掌を開いて、小箱を見せた。ふたにはタグを上書きする、識別コードの入つたシールが貼られてゐた。チップか監視デバイスでも入つてゐさうなケースだ。
 彼はグリフの隣に坐つてゐる女性を見つけると驚いたやうな顏をしたが、それも一瞬だつた。彼女が立ち上がると、少しだけ後退あとずさりして、姿勢を正した。
「メーテルリンク第6隊長殿、ご無沙汰してをります」
 ストリクス10は敬禮した。メーテルリンクもそれに應へ、敬禮した。しかし、彼女には無沙汰ではなかつた。先日もさうだ。「實物は見てゐないのだな」とは、情報を求めてきたスウィンバーンの言葉だ。顏や經歷は頭に入つてゐても、それ以上を答へることはできなかつた。第6隊でのゴーシュは「隊員」のひとりに過ぎず、彼女はコールサインを口にしたことがあるかどうかも怪しかつた。それが數ヶ月前には異動願ひを出し、受理され、今では第7隊の上位10名に連なつてゐる。不審を抱かない方が不自然だ。前線で能力を誇示するなら分かる。だが、「祕書」になりたいとは異質だ。祕書は前線から遠ざかる道だ。「番號付き」の望みも絶たれる。隊員が隊長に「近付く」理由は限られる。……金か……メーテルリンクが思ひ至つたのはそれだつた。實際、ゴーシュは金に苦勞してゐた。部隊には借金してゐないものの、入社前はいくらか仕事を掛け持ちしてゐた。そのせゐで經歷書はごちやごちやとしてゐる。大學も中退。どう見ても「無難な」人選とは言ひがたい。グリフの後繼者がこれで良いのか。メーテルリンクはかつての第2公設祕書を思ひ浮かべた。橫領などといふ恥曝しを再現するいはれは無い。だが、彼女に「部外」の人事に口出しする權限は無かつた。
「いや、助かつた。今日はこれで仕舞ひだ。お疲れ」
 荷を受け取つたグリフはストリクス10の肩を叩き、執務室に戾つた。元の上官とふたりきりになると、元の部下は肩をすぼめ、うつむき加減に口を開いた。「その……私の樣子を見に來たのですか?」
「いいえ」と、メーテルリンクは事實を言つた。「祕書官の硏修を受けてゐるやうですね。その成果に期待します。あなたが主張した異動理由は……豐富な職歷が第7隊および會計部門の補佐に活かせるだらうといふことだつた」
「さうです」
「しかし會計や祕書の經驗は無い」
「スウィンバーン隊長は打算的な人です。いろんなはなしを聞いて……ええ、ここなら自分が適任かなあと思つたんです」
「適はなければ鞍替へできると? ……ストリクス10、あなたにこれ以上の『希望』は通らない。アーキバスの意向に從ひなさい。あるべき場所で適應しなさい」
「……精進します」
 これが、ゴーシュとメーテルリンクの初めての會話だつた。
「良いお言葉だ……」ぼそつと呟いたのは、壁に留まつてゐたストリクス1だつた。「せめて、彼が羽ばたく前におつしやつて頂きたかつたですね、ヴェスパー6」
 これも未熟と數へられるのだらう、ヴェスパー6は、內心反省した。次からは書類データに目を通すだけでなく、つぶさに聽取をしよう——でなければ、他の隊長にも隊員にも、軋轢あつれきを生むのだ。
「君は最近老體と訓練をしてゐるやうだね、ストリクス10。今日は私が相手をしよう。よくよく考へれば、テストに立ち會へてゐなかつた」
「はっ……痛み入ります」
 ストリクス10の表情は一向に晴れなかつた。
 若いフクロフたちを見送つた後、メーテルリンクは自分の執務室に戾つて、雜務を片付けた。彼女の祕書は有能な人物で、上役に無駄な仕事をさせなかつた。今日も席が空いた隙に、データを整頓し、片付けるべき手順チャート、關連ファイル、備考ノートをデスクトップに竝べてゐた。彼女が會計責任者へ出向くことを嗅ぎ付け、第6隊の隊員リストにフラグを付けてさへゐた。各位の個人面談、性能テスト、素行の調査などは他の事務官が擔當し、彼女は報吿書に目を通すだけだつた。今までそれで問題が起きたことは無かつたし、問題のある隊員もゐなかつた。なぜ突然、ゴーシュなる個體が浮かび上がつたのか、彼女には理解できなかつた。人格面に變更は無かつた。素行にも變化は無かつた。だが、唐突に、ゴーシュは自分の持ち場に疑問を感じ、自分の適性を問ひただしたのだ。あるいは、まだ彼が部隊に殘つてゐれば、そのきつかけを聞き出すこともできたのかもしれない。今となつては……後の祭りだ。彼女は、部外隊員の時間を奪つてまで調査に係ることは望まなかつた。「檢證」命じると、人格分析AIが、生まれから部隊での經驗に至る出來事を抽出した上で、その關連性を結び付けていく。なぜ人は今の自分たるのか。その資質を取り出すには、短所を修正するにはどうしたら良いか。ここには「思考」の粹がある。人間が複雜な理由をひねり出すまでもなく、機械が順序だつた答へを、代はりに計算してくれる。
 メーテルリンクはウォーターサーバーから水を汲んで、立つたまま飮んだ。第7隊長のデスクには當然、飮⻝物など機器類を危險に曝すものは置かれてゐなかつた。彼は第7隊の內外にかかはらず適當な人材を見つけてきては、なんらかの勸誘行爲を行つてゐる。それは業務の範疇なのだらうが、メーテルリンクはどうやつて隊員にフラグを立ててゐるのかが氣になつた。スウィンバーンは無駄口を好まない。金の話となれば別だが、表向きにはさう露骨な話はしない。祕書はあの通りであるし……他に調査を買つて出る人材がゐるのだらうか。勿論、そのための部署はある。情報部門と人事部門だ。事實、會計責任者はどちらとも懇意にしてゐる。給與の計算や經費の調査に關はりがあるからだ。彼のみと言はず、どの隊長が調査を依賴しても、彼らは快く返事をするだらう。メーテルリンクはメールをタイプしたが、すぐに背もたれに寄り掛かつた。ある人物の顏が浮かんだからだ。いや、誰が責任者であらうと、任務遂行に必要なら依賴を出すべきだ。でも、本當に? 評判に反して、諜報員は口が輕さうだ、と彼女は根據の無い想像を膨らませた。ヴェスパー7はすぐに知るだらう……きつと、ヴェスパー2も。彼女は彼女が隊員を氣に掛けてゐることを知られたくなかつた。これは內部で處理すべきことだ。私にはAIがある。これを活用するチャンスではないか。
 彼女はモニターをスクリーンセーバーに切り替へると、仕事中のAIを放置して、執務室を出た。退勤時間だ。
 自室に還り、シャワーを浴びて、補給を攝ると、ワークステーションにログインして「學習」をした。人工知能とコーラル分析化學が現在の學習範圍だ。これは年中資料を見る時間があつても、理解には足りないだらう。
 ポッドに入るまで、少し時間があつた。頭の隅にあつた雜念は、やはりあのゴーシュ、そしてストリクス1のことだつた。若いフクロフ。知つておきたいと思つた。ふたりと別れてから3時間しか經過してゐなかつた。時は金なり、だ。
 彼女はシミュレータの戰鬪記錄がある視聽覺室に入つた。照明は消えてゐて、誰もゐなかつた。VR映像を再生する3視點のモニターには何も映つてゐない。手前の長机にあるプロジェクターに觸れようとすると、下から聲が聞こえた。彼女はシミュレータ室に續く階段の下り口に立つた。OSの待機畫面と同じ色の光線が漏れてゐる。よく知つた單語を聞き取り、彼女の意識は兩耳の集音センサーに向いた。
「……グリフィストワイトが不適任であることは私も認める。だが、君はそれ以下だ。あの老害には再敎育の必要性を自覺するだけの腦はあつた。祕書に最も必要な資質が分かるか? 謙虛さだ。君は自分のことしか頭に無いクヅだ」
「……」
「第6隊からしやしやり出て來て、前線で手前勝手をしたかと思へば、次は祕書になりたいだと。君はどれだけ身の程知らずなんだ……」
「……」
「動けるか? ストリクス10。隊長には、さうだな……抑へが效かなかつたと言つておかう。彼は理解するはずだ」
 メーテルリンクはその場を去つた。努めて物音を立てないやうに。
 フクロフを起こしてはならない。