3時24分。端末からワークステーションにログインしたが、作戦どころかメッセージの1本すら入っていなかった。3時25分。今から寝ても、アラームは約1時間半後に鳴るわけで、そうしたらもう、ほとんど寝ていないか眠れないかのどっちかだ。1時間半に「横たわる」価値があるのかどうか、フロイトには判らなかった。外せない用で何かをしていたわけでも、激痛に苦しんでのたうち回っていたわけではない手前、自他に釈明はできない。仮想戦闘と訓練プログラム、それに拾った画稿や景色の写真を眺めていたら、こんな時間になっていた。長いことモニターを視ていたせいで、眼も冴えている。腹は減っていないし、喉も渇いていないし、シャワーは浴びたくないし、まして外に出たい気分ではない。あの、まどろんで来た途中で起こされるのが、フロイトは一番嫌いだ。今すぐコックピットに入るなら別だが、頭は眠たさと光に対する過敏反応のど真ん中で、微妙な位置にいる。こうした隙間時間にする手慰みを、彼は持ち合わせていなかった。例えば他の兵士たちは酒を飲んだり、ヴァーチャルドラッグをやったり、仲間と談笑したりするわけだが、彼はいずれも関心が無かった。いずれも、ACを駆る昂奮に匹敵するものは無かった。
フロイト、コールサイン・ヴェスパー1は、アーキバスグループの強化人間部隊・ヴェスパーの主席隊長でありながら、戦闘員では唯一の非強化人間だった。システムひとつひとつの「操作」は、間違い無く彼自身の手足によって手動でなされている。メインシステムと神経による「直」の接続を持たない非強化人間は、FCSの演算を脳で肩代わりすることも、即座の対G調整も、ブースターの出力調整すら不可能だ。機体のスペック通りに、あるいはスペック以下で活用することが運命付けられている。システムへのアクセスはデバイス経由でしかできない。そんな「不便」さを強いられ、手術の成功率が向上安定した今でも、フロイトが手術を受けないのは、自分の限界を試したいからだ。現に最新の強化人間に追い付いているのだから、彼は満足だ。そんなテストにおあつらえ向きな「脱皮」する強化人間が傍にいる。
問題はそいつで、3時28分だった。強化人間の頭脳には正確な体内時計があって、網膜に時刻でも印字されているのか、彼らは時計を持たない。アラームも要らない。常に時間を聞いて回っているのは彼と医者だけだ。
彼はすくっと立ち上がり、第2ドックへ向かった。
ベンチ（とフロイトは思っていたが、実際には備品を収納したコンテナだった）に腰掛けると、どこかで見掛けた顔に、温かなフィーカをもらった。彼が部隊に来た頃は、誰も何も、飲食物も、毛布も、インカムも渡さなかった。というのも、周囲の人間は彼を強化人間だと思っていたからだ。
「閣下は……直に戻られますので」
やっぱり来て良かったじゃないか。とは言え、この前のように天候の機嫌が悪く、ブリザードに見舞われれば何時間と待たされる羽目になるのだが。
ヴェスパー第2隊長スネイル。フロイトがその名を知ったのはアイランド・フォーの動乱が起こる前のことだった。スネイルは当時からアーキバス部隊の指揮官で、フロイトはアーキバスグループが雇用する独立傭兵のひとりに過ぎなかった。つまり、スネイルは間接的な雇い主だった。強化人間増強計画を支持していたスネイルは、頭の切れる作戦参謀として、そこそこの評価を得ていた。一方で、戦果は上げつつも、フロイトは指揮官と直接会えるような身分ではなかった。大規模な作戦のブリーフィングでは顔こそ合わせたかもしれないが、恐らく互いに覚えていない。「スネイル」と邂逅を果たしたのは、強化人間技術が結実した時、すなわち「ニューエイジ」の到来を迎えた時だった。「話」というだけでなく、前線で「直接」スネイルを見るようになった。今でもそうであるように、その男の、力無きもの――旧世代型と非強化人間――に対する差別意識は強く、フロイトも何度「評」されたか分からない。一度か二度敵として戦ったその頃の感想は、「悪くはな」かった、とフロイトは記憶している。とくに脱出の手際は見事だった。動乱の戦果でスネイルは二番手でも三番手でもなかったが、終息に決定打を与えた、フロイトの演じた作戦を立案したのが、他でもない彼だった。知らぬ間に有名人になったフロイトに真っ先に声を掛けたのはアーキバスだった。あのような動乱はもはや起こらない、と作戦参謀は言った。それよりも、企業の発展に貢献する方がずっと素晴らしく高難易度だ。「俺は仕事をする」。そう言うと、スネイルは「良いことです」と言った。彼にはたくさんのプランがあるようだった。フロイトを置いたのは上層部の判断だったが、スネイルもまんざらではなかった。
入隊後、「身体検査」と称して色とりどりの装置を取り付ける医師たちの傍ら、波形を眺めるスネイルに、フロイトは掠れた声を絞り出した。
「俺は実験材料じゃない」
「他人を試している貴方が、何を言っているのです？」
――ブザーが鳴った。機体が収容される合図だ。
「閣下、お疲れ様です」上階から澄み渡る声。
フロイトは腰を上げた。
「『壁』だ」
スネイルは機体から降りた直後で、片手にはケーブルが数本ついたタブレットを提げていた。そのうち何本かは腰部と繋がっている。フロイトが呼び止めると、スネイルは視線を流しはしたが、すぐモニターに意識を戻した。
「スネイル」
「フタを開けてみれば大した中身も無かった、それだけのことです」
「俺の代役は面白い奴らしいな」
スネイルはモニターの数値を確認しながら、腰部のケーブルを引き抜いた。少しばかり、その眼が瞬く。
「ヴェスパー4の言うことは真に受けない方が良い」ケーブルを緩く束ねると、コンソールの上に放る。「駄犬は駄犬です」
「『ストライダー』だったか、やったのもそいつなんだろ」
「ガラクタですよ」尚もフロイトが眼力で訴えると、第2隊長は補足を続けた。
「シュナイダーは設計図を入手していた。それだけ詳細な情報があれば、撃破可能です――それこそ、どんなに頭の悪い駄犬でもだ。まあ……私も目を通しましたが、随分と杜選な設計でしたよ、あれは」
「……だから独立傭兵に投げたのか？ 俺ではなく？」
俺もそのデカブツを見たかったのだが、という言葉は更衣室のドアに阻まれて消えた。
中は空調が掛かっていたにもかかわらず、蒸し蒸しとしていた。
「……次は？」
外観は同じものの、フロイトのパイロットスーツは他の面々より厚手で無骨だ。というのも、強化人間はそれ自体対G調整ができるからだ。強化人間のスーツは、彼らの機能を滞り無く伝達するためのフィルム、と言った方が良い。パイロットの保護よりも優先される――元より設計思想が違うのだ。
オープンフェイスそっくりな威圧的な体躯が、目の前にある。元々そうだったのか、「調整」を重ねてそうなったのかは定かでないが、燃費の悪そうな身体だ。そのくせ、“補給”は茶褐色のドロドロしたゼリーを、体格に合わせて希釈して飲めば、3日は持つということだった。その塊が代替コーラルであることを知ったのはつい最近だが、フロイトが食に無頓着と言っても、そんな「粗末」な食事で一生を過ごしたいとは思わなかった。まだレーションの方が魅力的な形をしている上、味も豊富だ。代替コーラルという燃料で命を燃やしている様は、まさに機械仕掛けに見える。人の形をまだ残しているのは、それもまた必要な「機能」だからか。
皮膚に埋め込まれた接続機器は防水性なんだなと、当たり前のことを当たり前に、シャワー室から戻って来たスネイルを見て、フロイトは思った。そう言えば、強化人間の身体はまじまじと見たことが無い。座学で仕組みをさらった程度だ。尤も、再教育センター長官は喜んで「見学」を許可するだろうが……。なるほど、噂通り必要の無い機能は徹底的に削ぎ落としている。肉の繋ぎ目どころか痣や傷、長さの違う手足や体毛、人につきものの非対称性――そう、生きて来た証拠が無い。時間の積み重ねを拒絶する結果が、その身体にはあった。何も無いことが、何かあるメッセージ。作り物。既にこの身体はほぼ全て、人工物に置き換えられているのだろう。脳までそうだとしたら、スネイルが「スネイル」と認知する、この驕傲たる人格もまた、技術の粋を集めてできた人造の産物に過ぎないのか？
フロイトは思い出したように、台に伏せられたタブレットに手を伸ばした。ついさっきまでこれはスネイルの「頭」を映し出していたのだ――文字通り。起こしてモニターに触れたが、当然、生体認証が掛かっていた。
「貴方にその権限は無い」
「俺は主席隊長だ」
笑った。――酷い冗談だ。そう形式上名乗ることはあるが、いざ口にしてみると、物恐ろしい台詞に聞こえた。この特権はと言えば、機体構成を好きにするという「当たり前」と、好きに仕事を選べることだ……ただし、作戦立案者が彼を必要とした場合に限る。予定外の「干渉」を防ぐため、用心深い指揮官は最低限の情報しか伝えない。命令を無視する奔放な自分に非があると批判されてもフロイトは否定できないが、例え彼が従順であったとしても、スネイルは「余計」な情報は彼に漏らさなかったろう。実権を握るとはそういうことだ。加えて、スネイルは重要な作戦には自分が出向くタイプだった。フロイトが投入されるのは、端的に言えばスネイル自身が手に負えない件だった。戦力としての自分が持て余されている、そう感じることも時折あるが、自分で作戦を立案し、部隊の細部にまで気を配り、議論を戦わせて勝たなければならない過程があることを考えると、フロイトは今の身分がとても楽に思えた。政治的なドラマは、それが好きな連中に任せれば良い――頭の使い方には、向き不向きがある。自分は前線に立つことに関してはプロを自負できるが、情勢だの、交渉だの、策略なんてからきし駄目だ。人を納得させるに、俺は力を振るうことしか知らない。
結局のところ、昔から何ひとつとして変わらない――
「では指示を頂けますか、ヴェスパー1？」
こいつが冗談でもへりくだるとしたら、俺だけなのだ。
相手は更衣を済ませていた。フロイトはすぐ仮想戦闘シミュレータを思い浮かべた。「先取した方が……」と言い掛けると、相手が手首を指すジェスチャーをした。時間が無い？ 即刻与太話を終わらせろ、という意味でもある。少し考えて、彼は目の前の物置き台に目を留めた。「これだ」
前屈みになり、肘を乗せる。
「フロイト」声色には喜色が滲んでいた。「私は『調整』したばかりです」
「……まずいのか？」
「逆だ」
相手は乗ってきた。こんなことをするのは久し振りだし、こんなことを第2隊長がするとも思わなかった。
掌が触れる。シャワーを浴びたばかりだというのにひんやりと冷たくて、妙に滑らかな感触がある。出来損ないの義手のような……。この人造人間と手を合わせるのは、これが最初で最後になるだろう。青白く透き通った人工皮膚、その下にはうっすらと血管……に似せたファイバーケーブルが見て取れた。体格差はあるが、これが同じ操縦桿を握っていると思うと、フロイトは不安など微塵も感じなかったし、面白かった。
「俺が勝ったら、さっさと仕事を回せよ」
「構いませんが、こんな馬鹿げたことは一度きりにしなさい」
受けておいてそんなことを言う。
「そうか。じゃ、3、2、……」
小細工は一切無し。生身だけの勝負。こういうのも悪くな……
「――えっ？」
彼の手の甲は、台についていた。
相手は既に手を放し、上着を羽織って、小脇にタブレットを抱え、今に更衣室を出て行こうとしていた。
「興醒めだな」フロイトは言った。「どうせやるんなら、愉しめよ」
「貴方の腕を圧し折って手術台に送るのは造作も無いこと」
再戦を強請っていると思われたらしい。ややあって、寝ぼけていたのは自分の方だと気付いた。当然、相手が勝つに決まっていた。強化人間とコックピットの外で張り合うのは確かに馬鹿げている。例えここでハンドガンを撃ち込んだとしても、次の瞬間には叩き落とされて酷い目に遭うことは目に見えている――尤も、彼は丸腰だったのだが。しかし、どんなに馬鹿げていると自覚していたとしても、「やりたい」という欲求は抑えられなかったろう。戦いとはそういうものだ。興醒めと言っても、彼とて生ぬるい「手心」を期待したわけではない。ありのままを述べただけだ――ああ、「つまらない」連中はこんな想いをしているのかもなと、彼は頭の隅でぼんやりと思った。何もできずに終わる。
「スネイル」
「なんだと？」
急に戸惑った声を上げられたので、彼も戸惑った。なんだよ、と言い掛けて、相手の焦点が見えない場所に向いていることに気付く。
「すぐにデータを送りなさい」
「また『独り言』が始まった」。通信機など無くとも直接脳で通信ができる強化人間は、いきなり喋り出し、いきなり何かを見る。機械や強化人間同士は情報を「共有」できるが、非強化人間にはそれができない。同じ空間にいても、見聞きしていることには雲泥の差がある。それはフロイトがどんなにACに熟達していても、決して至ることのできない領域だった。情報と交信の格差。彼にはその情報にアクセスする権限が無いどころか、手段が無い。機械である彼らからほんの一端を伝えられるだけだ。そのうちこいつらは言葉も遣わなくなるんじゃないか、フロイトはそう思う。「コード23、現着した」。まさに惑星封鎖機構の兵士と同じ話し方だ。フロイトの他人への無関心もそこそこだが、そもそも彼らとは話が繋がらない。時折、フロイトは情報の断片と話している気になる。「前提」から話すので、相手の主語や目的語が欠落してしまうのだ。彼もまた情報の伝達が上手い方でなかったから、お互い様なのだが……互いが互いの情報を予測で補い合っている。前線での通信は未だ口頭だが、ブリーフィングは確実に“ストリーミング”の波が押し寄せている。ヴェスパーの隊長が揃った会議で、自分ひとりのためだけにプロジェクターやスピーカーや入力デバイスが用意されているのを見ると、フロイトは不思議な気持ちになる。寧ろ、「人間」である彼こそが異邦人なのだ。それは特権ではなく、無機能に対する「配慮」だ。
「ふむ……」スネイルは、フロイトが見ることのできない何かを見ている。
強化人間は、そうでない人間との間に明らかな差異をもたらした。それは戦闘に限ったことではなかった。コミュニケーション、知覚、生理、人格、思想、つまり、存在する空間を変えた。同じ「人間」と標榜するには、あまりにも乖離した媒体……フロイトは「新人類」と「旧人類」の小競り合いの中にいるに過ぎなかった。だから、「強化人間を超えている」などと評されても、ぴんとは来なかった。元々違うゲームをしている。どちらが上でも構わない。ただし、旧人類の「上位者」として作り替えられた彼らは、旧人類を「超える」機能を証明しなければ、存在する価値すら無い――スネイルを見ていると、彼はそう思う。強化人間には焦燥がある。存在の承認に飽いている。
「ウォッチポイントを襲撃するとは……大胆なことをする」
数分の交信を経て、やうやく、スネイルの眼光は、フロイトが存在する「現実」に戻って来た。
「だが、こちらの手間も省けた」
ウォッチポイント。封鎖機構が管理する、コーラルの監視施設だ。アーキバスはそこに貯蓄されたコーラルを欲しがっていたが、結局手付かずじまいだった。襲撃が敵わないというよりも、その後のしっぺ返しを恐れてのことだ。それをやってのけたのが、またしてもあの独立傭兵レイヴンらしい。スネイルは駄犬と言って譲らないが、それがいかにカビの生えた旧世代の遺物であれ、「仕事」には目を瞑らないではいられない。あいつ、ラスティの目利きも確かということか。実力者をなめて掛かるのは奴の悪い癖だ、それさえ認めれば、こいつは俺を奴らとぶつける気になるだろう。しかしフロイトは他人を「たしなめる」言葉を知らない。身体に教えても分からないなら……その先は彼の管轄外だ。
「やっと調査も進展する」スネイルはフロイトの方に身体を向けた。やっと会話も進展する。
いいですか、とスネイルは前置きした。タブレットを片手で弄りながら「コーラルには一定の指向性が……」
「どこに行く？」
いくらかは生き生きとしていた眼差しが、再び不機嫌に曇った。
「そうでしたね、貴方に説明するだけ無駄でした」第2隊長は要点を伝達する。「今入って来たデータを反映すると……そう……中央氷原か。となると当然、ベリウスより気候が厳しい。機体にも調整を加える必要がある。フロイト、貴方も自分を調整しておきなさい」
アーキバス部隊に配備されている兵器類は、ルビコンの気候に合わせて改造がなされている。強化人間ではパイロットが出力の振れ幅を学習すれば良いところを、非強化人間は気温や地形の大幅な変化について、比例したチューニングを機体に施さなければならない。加えて、休眠ポッドに入ってメンテナンスプログラムを走らせるだけでは肉体は整わないのだ。「ニューエイジ」の普及と共にスネイルが強化人間のライフラインを部隊に敷くと、費用対効果は非強化人間に不利になった。
フロイトはその気になれば作戦情報は数秒で頭に叩き込めたし、自覚できる症状は何も無かった。
「俺はいつでも……」
「脳を休めろ、と言っているのです。貴方のような真人間には、睡眠が必要です。また薬漬けになりたいのなら別ですが」
無茶をしたツケを取る時、フロイトはこっそりと医務室に訪れて、鎮痛剤や刺激剤をかっさらっていく。注射も自ら打つ。スネイルが提供するクスリは強烈で、意識は一瞬で覚醒するが、次第に操縦桿を握る手が空と馴染んでしまうような、そんな感覚がある。帰投すれば検査尽くしだ。おまけに排出する時が一番つらい。副作用がある得体の知れない代物を渡さないだろうことは承知しつつ、昔ながらの方法で耐えていた方が、フロイトはずっと楽だった。
その言葉のせいなのか、すぐに仕事にこぎつけられないと判ったからなのか、急激な睡魔がフロイトを押し上げた。彼は目を閉じると、そのままベンチに乗った。身体を仮眠室に運ぶ余裕は……ありそうにない。どこででも寝られるというのも、このフロイトの特筆すべき才能だ。
疲れ果ててその場で寝る。スネイルは溜め息を吐いた。
「全く、不便な身体だ……貴方が功績を上げている限りは尊重しますがね、その決断が隊の負担になっていること、少しは考慮なさい」
「ああ、そうだな」
5時19分。いつ起きれば良いかは、誰かが教えてくれる。
「また忙しくなる……」
その声には悲観ではなく、愉快な響きがあった。これから面白くなる兆候だ。フロイトもまた、薄ら笑いを浮かべ、眠りに落ちた。ブリーフィングデータで埋め尽くされた受信箱を想像しながら。