still a haze

「なぜすぐに帰投しなかつた、ヴェスパー4」
「ヴェスパーに門限があるとは知らなかつたな」
 濡れてゐる髪から垂れた滴が、ひとつふたつ床を濡らした。気の利いた返事をするために用意した台本を記憶メモリーから呼び起こすところで、彼はズボンを反対に履いてゐることに気付いた。「……嘘は吐けないな」
「当然、貴方には洗ひざらひ吐いてもらひます」
 その時、訪問者を告げるブザーが鳴つた。冷然とした視線が扉に注がれたが、その口が構はず言葉を続けようとしたので、ラスティは「私が呼んだんだ」と口走つた。この男には、隙を与へる余裕いとまが無い――「このラスティには弁明の余地がある」
「聞きませう?」
 入つて来たのは、シャワー室に飛び込んで来た士官だつた。血の気が失せ、片目が腫れたやうに落ちてゐる。その彼が引つ張つて来た兵士は、背中を屈め、今や外に放り出されたやうに、手をすり合はせ、身体を震はせてゐた。
「申し訳ございません……び、微量なコーラル反応と、ベイラムの調査隊がゐたものですから、そのっ……ラスティ隊長に」
「報告が遅れました!」
 士官は力いつぱい叫んだが、上官の叱責を掻き消すことはできなかつた。
「『調査隊』を蹴散らすのに兵力が足りなかつたと? いつから第6隊は隊長に小間使ひをさせられるやうになつた?」
「私の判断だ、スネイル。疲弊してゐる彼らには荷が重いと思つてだ。結果として死傷者は無く、戦闘はものの30分で済んだ。帰投に時間が掛かつたのは、ブリザードが酷かつたからだ……航行記録と調査ログを見れば分かる」
 それがほんのわづかなコーラルだつたことは、ラスティも士官たちも理解してゐた。だが、戦闘する価値があつたかどうかについては、当の誰も理解してゐなかつた。ラスティはそれが妥当な仕事に「見えた」から現場に向かひ、判断を下した兵士は手柄コーラルが欲しかつたのか、ベイラムが気に入らなかつたのか、第2隊長を前にした今では、自分でも判らなかつた。なぜあそこであんな真似を、といふ思考がぐるぐると脳みそを掻き回してゐた。
「いつもさうだ」スネイルは哀れつぽい声で言つた。「指揮系統を理解してゐない愚か者のために、企業の秩序は踏みにじられる」
「君たちはもう行つて良い」
「私は許可してゐない――! 判断能力の無い痴れ者には……幸ひ、役立たずの脳みそにも使ひ道はある。感謝しなさい」
「……」
 再教育センター。再教育センター。「戻つて」来た敵も、同胞もゐない。具体的に何が行はれてゐる場所なのか、末端の兵士には知らされてゐなかつた。だが、この第2隊長がさう浅くない関はりを持つてゐる以上、その用途は明らかだつた。
「こ……光栄です……」
 今から泣き喚いたところで、この決定が覆へるわけもない。それに……「再教育」を受けてアーキバスへ貢献できる身に生まれ変はれるなら、その方が良いに決まつてゐるではないか……考へるまでもなく。帰属するこの企業アーキバスが何者であるか、部隊を統括するこのスネイルが何者であるかなど、始めから解つてゐたことではないか!
「私は……アーキバスです」
「まさしく。貴方はアーキバスの部品パーツです」
 話が付くと、士官は兵士の背中に手を添へて、出て行つた。
 ラスティはあごを伝ふ水滴を指先で拭つた。「……私の処分は?」
「第7試験場」それだけ言ふと、スネイルはデスクに置いてゐた端末を渡した。
「帰投したばかりだ……身体にこたへる」
「ならば早く終はるでせう。行きなさい」
 苦しくなければ処分にならない。受ける覚悟もある。だが、ラスティは気が重かつた。進展の見込める仕事とは言へない。次席隊長の玩具になるよりは格段にマシだが、と言つて主席隊長の玩具になる方がマシといふわけもない。もとより「いや」とは言へない身ではあるが、にしても、このヴェスパーといふ部隊は――いや、あのスネイルといふ男は身体の負担を考へない。自分の尺度で物事を測つてゐる。ヴェスパーは「眠らない」。事実、スネイルは眠る必要が無いらしい。ちよつとした「クリーニング」で、肉体に溜まつた不純物はきれいさつぱり拭へるさうだ。話に聞いてゐたより化け物だ。正真正銘、24時間365日稼働する、部隊のマネージメントシステム。なるほど、これでは誰も奴を出し抜けないわけだ……
 突き当たりのエレベーター前には、疲れた様子の士官が彼を待つてゐた。お互ひ、何かを言ひたげだつたが、何を紡いでも虚しい言ひ訳になることは知れてゐた。
「第1隊長の相手を仰せつかつて来た。今夜は……他に予定があつたかな?」
「とくにありませんが、明朝までに確認して頂きたいリストが3つあります」
 今し方の始末書、報告書の承認、作戦の評価、部隊の訓練、部門会議、エトセトラ。ラスティは肩を落とした。「『隊長』といふものがこれほど大変とは思はなかつた」
 スネイルは計略を用ゐるまでもなく、彼を降格させる理由を挙げられるだらう。ミドル・フラットウェルが必要としてゐた人材は優秀な戦士といふだけでなく、密偵もこなせ、尚且つ大企業の隊長職も務めることのできる能力の持ち主だつた。選ばれたことに、ラスティは名誉を覚えて良いのか分からなかつた。普段操縦士が気にもしない「雑用」を任せられたり、生命いのちを奪ふ相手が敵であるだけでなく無実の味方であつたりすることも考へると、提示された報酬はあまりに少な過ぎた。勿論、彼はそんな容易に手の届く対価が欲しくてこんな泥仕事を引き受けたわけではない――「見合ふ」報酬がやり遂げた先の世界だなどと、なぜ確信が持てるのか。先ではない、「抵抗」する今こそが唯一、手に取れる現実だ。
 みな当然のやうに、戦闘に投入される兵器として以外の役目も負つてゐる。例に洩れずラスティにも事務を補佐する士官がつけられたが、重要な決定は彼が負はなければならない――それが真の雇ひ主の狙ひであつた。彼は積極的に内情に干渉していかなければならない。
 階数のランプが点き、扉が開いた。「失礼します」士官が降りる。閉ぢようとする景色の隙間から、都合の良い顔が見えて、ラスティは扉を押し開いた――これも気を付けなければ。備品の損壊は第7隊長から「指導」をあづかる羽目になる。
「ホーキンス!」
 部下たちと談笑してゐた第5隊長は、びつくりして目を開いたが、すぐにまたにつこりとして、寧ろラスティを手招いた。
「また呼び出されたんだつて、ラスティ君? 君は本当に恐れ知らずだなあ」
 大目玉を食らつたのは私ではないのだが――。先程はアーキバスがどんな組織か再認識させられたが、目の前の兵士たちは作戦とは関はりの無い話題で油を売つてゐるのだから、やはり第5隊長は最も「手の届く」人だ、ラスティは口を開いた。
「あなたに頼みたい仕事がある」
「またかい? さう言へば、この前の埋め合はせもまだ……」
「野暮用があるんだ。ありがたう、ホーキンス」
 用件だけ預けると、ラスティはきびすを返した。大方の情報は「仕入れ」る価値があるのに対して、始末書といつたものは誰にもなんの価値も与へないものだ。これで数時間は節約できたらう。ホーキンスにはパイロットになつたきつかけでも話してやる。このムードメーカーへの一番の手土産は雑談かたらひである。背中からは溜め息が聞こえて来た気がしたが、程無くして他愛ないお喋りが再開された。定期アナウンスが流れ、兵士たちが行き交ふ。ラスティはその喧騒に紛れ、消えた。


 控へ室に着くと、ラスティを待つてゐる男がベンチでパイロットスーツに脚を通してゐるところだつた。
「ヴェスパー1、遅くなつた」
「いい、やらう」
 ラスティはこの、驚異の作戦成功率を誇るエースパイロットを、よく知らなかつた。2、3回、模擬戦といふ形で相手をしたが、かうしてまともに対面するのは初めてだつた。どこか、ガレージだつたか、このやうな試験場だつたかは覚えてゐないが、ちらつとガラスの向かう側から見掛けたくらゐだつた。あれがフロイトです、と士官が事も無げに言つたのが印象に残つた。アーキバスの切り札。現状の、ACでは最高戦力と言つて差し支へない。当然、ラスティは彼について知つておいた方が良い。近付けるならさうしておいた方が良い。
「……起きたばかりなのか?」
 相手の動きはいささか緩慢に見えた。初めて相手をした時は、ラスティの方がスタッフに急かされたといふのに。恐らく、既にフロイトは飽きてゐるのだ。今日の訓練には少しばかり「ハンデ」が加へられるのだらう。スネイルの付けた「安い」無人機、あるいは「こしらへ」て来た有人機が。
起こされたんだ」
「……あなたは常に眠つてゐると聞いた」
寝かされてゐる、俺の脳みそをコピーするために」
「同情する」。それが率直に出た言葉だつた。第1隊長もまた、第2隊長の毒牙に掛かつてゐるといふことか。少し認識を改めなければならないやうだ。
「人生は短くつて、退屈だ……俺は面白い方が良いと思ふ。面白くなるなら、それが良い」
 再び、認識を改めた。下手をするとスネイルより酷いかもしれないぞ、こいつは。アーキバスについてゐるのも、「無茶」な仕事が多いからだらう。大規模な作戦にはいつもフロイトが投入されると聞く。そのくせ、フロイトその人に対する人望はあまり無い。彼に期待されてゐるのは、作戦の成功、それのみなのだ。戦績は評価されるが、恐れられ、憎まれ、悪名と権力をほしいままにするのは、フロイトを運用する第2隊長スネイルなのだ。
「全力であなたを愉しませよう」
「口輪はいつ外すんだ、スティールヘイズ」
 ラスティは一息吐いて、ロッカーに手を付いた。自意識をここに繋ぎ止めるとすれば、それは関心か、苦しみか。
 まだもやのなか――深奥は見えさうにない。