364 B4: 第8隊長、ペイター

 アーキバス・ルビコン支部、地下3階試験場——東トイレ。
「う……ううっ……」
 すすり泣きにも近い声は、“教育”に耐えかねた隊員の吐露にも、腹痛に見舞われた苦痛の喘ぎにも取れた。だが、声の主はそうした「間抜けな」見た目など気にも留めなかった。
「ヴェスパー第8隊長……ペイター……抗しがたい響きだ」
 ペイターは拳を握り込んだ。彼に涙や鼻水といったものがあったなら流れ出ていたろう。これだけ打ち震えていても、脳波は静かな水面みなもを描くだけだ。というのも、この極めて情緒的な発露は強化人間システムの「不調」ではないからである。
 第10世代被験者の中でもとくに「安定」した人格を持つと認められた彼は、医師たちのお気に入りだった。彼らの推薦により試験期間は短縮され、実戦経験が乏しいながらもヴェスパー第8隊長の抜擢を受けた。そのような状態から指揮官が務まるかどうか、第2隊長とアーキバス技研が検証の必要性を訴えていたからだ。コーラル代替技術の成熟した最新世代の強化人間であれば、経歴や年齢が若くても波風が立ちにくい——そのタイミングが今だった。この試みが「優良」の結果を出せば、戦力のコストパフォーマンスは一気に跳ね上がる。ペイターはACの操縦技能について良いスコアを叩き出し、従順な性格を評されてもいたが、彼自身の実力で隊長職に就いたわけではなかった。
 ペイターはもう一度鏡を覗き込んだ。無表情の青白い顔が映っている。もはや、先程まで与えられた地位に感極まっていた男はどこにもいなかった。彼は少しだけ、微笑してみせた——この微妙な表情の違いが周囲の人間に与える影響、彼は理解している。愛想という武器は、強化人間が多くを占める環境にあって、未だに有効だ。
「私はアーキバスだ」
 彼は深奥に刻み込まれたおしえを声に乗せた。この言葉を唱えると、意識がどっしりとどこかに着地するような、懐かしいような、自分が企業の一部という感慨が湧いてくる。そして冷静でいられる。帰属をはっきりとさせられる。
 さて、時間だ。「案内」は第7隊長スウィンバーンがしてくれるという。部隊に数少ない型落ち世代だそうだが、隊長職に留まっている以上、実力者であることは確かだ。吸収できる点はいくらかあるだろう。
 ヴェスパー第8隊長ペイター、これより着任する。