248 B4: 酔えない

「なんで酔えないかな……全く……」
 ホーキンスはくびれた瓶に口を付けた。術後、味覚は失わずに済んだが、アルコールに対する処理能力は「発達」してしまった。ストレスの対処法として健全な手段、例えばメンテナンスプログラムを走らせるとかVRで憂さを晴らすとかいったことが望ましいと分かっていても、彼は昔ながらの方法に頼りたくなる。
「出撃5時間前に飲酒とはけしからん」
 ぱっと灯が点いた。今日は隊服のお陰で、第7隊長には多少の威厳があった。「指導の対象だぞ」
 ホーキンスはソファの脚に背をもたれ、床にべたりと坐っていた。ここが共有の事務室コワーキングスペースとは気付きもしないまま、彼は人気ひとけの無い場所に逃げ込んでいた。道理で冷たく、寂しげだ。
「……刺激剤が必要か?」うなだれたホーキンスに、スウィンバーンは身をかがめた。「なら手配……」
「必要なのは飲み仲間さ」
「まるで酔っ払いドーザーだな。見損なったぞ」
「お前に目を掛けられてもな」
 ふん、とスウィンバーンは鼻を鳴らした。「いいからそこをどけ」
 いつからお前の特等席になった? そういった悪態は飲み込んで、ホーキンスは時間が流れるに任せた。自意識の強い臆病者は、沈黙に押し殺されるのが恐いのだ。
「私もひまではないのだぞ!」
 ホーキンスがてこでも動かない、と分かると、スウィンバーンは渋々出入り口に近いコンソールに端末を繋いで、仕事を始めた。いくらかファイルを弄った後、「それで」と彼は自分の膝を指で小突いた。「コーラルでも欲しいのか?」
「まさか!」ぽかんとしていたホーキンスは飛び起きた。「そんなわけないだろう!」
「じゃあなんだ? 酩酊した振りなどして……非常に気味が悪いぞ、貴様」
「お前に言われたかない……」
「大層な『独り言』をここで言ったとしてもだ。なに……誰も聞いてはいまい。言ってみろホーキンス、貴様にも溜め込んでいるものはあるだろう」
 急にスウィンバーンがにやにやし始めた。本当にこいつは厭らしい奴だ、ホーキンスは心底彼が嫌いだった。
 第5隊長は目を閉じた。第7隊長は地獄のかまを掻き回している獄卒だ。しかし、自分の口で言うことに意味がある。
「調整を受けたい……」
 シンプルな独白が、空間に染み渡った。
「よおくわかった」スウィンバーンは端末の上で動かしていた手を止めた。「貴様の皆勤賞もここで潰えるわけか。まあ妥当な理由ではあるが」
 皆勤賞。そんなものがあったこと自体知らなかった。誰かさんが褒賞をくれた覚えが無いからだ。
「作戦は? 私なしでやるってのか?」
「貴様には補佐官がいただろう。備品の警護もできないような役立たずなら、ヴェスパー8は返上だ」
 まあ、悪くないか。ホーキンスは肩の荷が下りた気がした。新人とは言え、今自分には第10世代の部下がいるのだ。なんとも頼もしいことじゃないか。耐久力に不安はあるが、後方のMTを少し足せば問題ないだろう。いざとなればメーテルにでも……
 ホーキンスは瓶を掴んだ手に力を込めると、重い腰を上げた。ペイターに指示を出さなければならない。調整の予約を取らなければならない。……この前調整した時はどんなだったか。脳が映像を再生する。ここで作戦を辞したとして、自分は真っ直ぐ診療台に向かうだろうか?
「ホーキンス」スウィンバーンは丸まった背中に呼び掛けた。「再手術」
「しない」
 それも、この第7隊長に辟易することのひとつだった。にもかかわらず、アーキバスは賞讃すべきなのだろう。
 決意が揺らがないうちにここを出て行ってしまいたかった。だが、衝動は口をついて出た。
「去年は?」
「18人」
「彼も含めてか」
「そうだ」
 ホーキンスは溜め息を吐いた。スウィンバーンがどんな甘言かんげんを用いているかは知らない。しかし、部隊に借金をしてまで再手術を受ける隊員は跡を絶たなかった。その中には隊長すら含まれていた。ここで「うん」と言えば、スウィンバーンは喜んで手口を披露してくれるのだろう。普段の因縁も忘れて。だが、彼は「うん」と言えなかった。この件が第2隊長と浅からぬ関係を持っていることは明らかだった。決してスネイルは、彼の“損失”を惜しいとは思わないだろう。このスウィンバーンも。手心を知らぬからこそヴェスパーはヴェスパーたりうるのであり、こんな心情にあっても、彼は部隊の揺るぎなさを感じることができた。相反してはいるが、矛盾はしていない。
 再手術。ニューエイジ。
「頼むからメーテルはやめてくれ」
「ん? ……」
 スウィンバーンは生返事をした。ホーキンスはメーテルリンクとの関係を誰にも話したことは無かった。時折、第7隊長は関心があるような素振りを示すが、実際に問うたことは無かった。知っているのかもしれないし、知らないのかもしれない。いずれにしろ、直接的な利害に結び付かないなら、この隊長は個人的な事情に踏み込まなかった。同時に、踏み込ませもしなかった。
「私が見る限り、その必要は無い」
 つまり、そういうことだ。メーテルリンクは再び、澄まし顔で彼のもとを訪れるのだろう。いや、そんなことすらしないのかもしれない。ヴェスパーに入隊してからのメーテルリンクは、常に他人行儀だった。それは隊長としての線引きだが、あの日からずっと、ホーキンスは大事なものを置き去りにしてきたと感じている。誰にも判らぬことだ、問題なく動き続けるものが、正常かどうかなど。
「あれはスネイル閣下の次に丁寧な仕事をする。自立し、礼儀正しく、周到で、従順、貴様には目を掛けられ、閣下にも気に入られている。私は満足だ。使える
 ホーキンスは上官として、スウィンバーンの言葉以外に、メーテルリンクをどう評して良いか分からなかった。
「良い子だからさ。無闇に手術は受けて欲しくない」
「貴様はシックスを理解していないようだな。関心事なのに?」
 スウィンバーンの疑問は尤もであり、だから、ホーキンスのことは理解していなかった。ホーキンスはスウィンバーンを恨めしくもあり、羨ましくもあった。メーテルリンクを哀れむ道理はひとつとして無い。哀れみは彼の記憶にある。ねじ曲げられ、交差して、正しい姿を留めることのない記憶……
「余計な詮索は身を滅ぼすぞ。貴様には利用するという欲すら無い。一体貴様と奴になんのメリットがある……」
 これもまた詮索ではあるが、とスウィンバーンは口を閉じた。ホーキンスもまた、反射的に開き掛けた口を閉じた。なぜ再手術をしないか、互いに聞いたことは無かった。
 代わりに彼は話題を変えた。
「私はいつも思うんだよ。お前は人の望みばかり聞いて、売り付けた恩を帳簿に付ける、厭らしい奴だって。なぜそう感じるかと言えば、手の内が見えないからだ。……お前の望むものが分からないからだ」
 スウィンバーンはさりとて反応を見せなかった。ただ答えた。
「私に欲しいものなんて聞くな。……失敬だぞ」
 ホーキンスには「卑怯」の言葉がしっくり来た——だが、逆に問われたとして、自分は何が言えただろう?
 ふたりとも長い間、他人のために必要なものを用意してきた。いつの間にか、欲求することを忘れてしまった。地位を渇望するとして、命をここに留めるとして、それは何をするための時間稼ぎだったのか。ふたりとも大して、欲しいものなど無かった。それよりも次の作戦が何を必要とするかが気になった。これは習慣であり、使命であり、存在意義、業であった。
 スウィンバーンは話題を戻した。
「いいか。本社になど行くと……手術を『検討している』と口にする奴らはごまんといる。他人や金や地位や寿命のためにだ。奴らは手術をすれば何かが付加ふかされると考えているが、それは違う。私たちは残ったものだ。ACの操縦に必要なものしか残らない。この身体は手取りだ」
 スウィンバーンが強化人間をどう捉えているか聞くのは初めてだった。そして尤もだ、とホーキンスは思った。強化手術には何も期待すべきでない。
「そうであると知りながら、お前は他人に推奨するんだな? 思い上がった期待をぶら下げて?」
「肉体という原価に対してどの程度の利益を見込むか、それは各位の頭で考えることだ。スネイル閣下がご無事でいられるのは……謙虚であるからに他ならない」
「よく言う」
 謙虚。まるで縁の無い言葉だ。あいつの入社以来そんなものを感じたことは一度も無かった。それは計算高いことの綺麗な褒め言葉に過ぎない。そのかげの醜い犠牲は、成功という輝かしい光のもとに見えなくなってしまう。
 石橋を叩いて渡らない奴らは愚かだ、という声が今にも聞こえる。スネイル、スウィンバーン、そしてメーテルリンクは、堅い手でこうしてここまで生き残ってきた。ホーキンスもそこに並ぶが、その橋は渡りきれないと、彼は認識する。
「時間の浪費は許されない」スウィンバーンは手を叩いた。今度こそお開きだ。
「私は金を工面するためにここにいる。再手術でもなんでも、金に困ったら私に言え。個人的にも貸してやれるぞ。破格の条件でな!」
 誰が借りてやるものか、馬鹿野郎。
 ホーキンスは胸に溜まった毒を出すため、ガレージに急いだ。
 願わくば、この獄卒が冥土の渡し守でないように!