Return to Humanity

「不具合がありますか?」
 ベッドに腰掛けてうなだれてゐると、不意に、声が掛かつた。相手が誰であれ、今の自分の顔を見たらさう思はずにはゐられない。いや、調子は良いんだよ、最高だ、人間たりうると、さう、オキーフは回答したかつた。しかし人間特有の気怠さで、語るほどの理由も無かつた。
 黙つてゐるのが不調の回答と見えて、相手はオキーフに近付くと、何の遠慮も、配慮も無く後頭部を掴んで顔を上げさせた(こんな乱暴なことをされるのはうんと若い頃に企業の下つ端に絡まれて以来だつた)。上官と、眼が合つた。――うんざりする。たぶん、たもとを分かつた存在に「眼」といふものが付いてゐたなら、このやうに視られてゐたのだらう。好奇心――そんな純粋で、生易しいものではない。「探る」といふでもなく、これは人間以外の何かを観察する眼だ――何らかの発見を求める眼。俺はアレの次にコレが嫌ひだ。でも、その間には天と地ほどの差がある――さうか? この男は機械と人間の差を無くしたいやうではあるが? しかしまだ、人間だ。
「目覚めが悪いだけだ」
「数値を見る限りは問題無ささうだが……」
 さう言つて、上官はオキーフの頭蓋を指で押した。その手付きは触診でもしてゐるやうだ。実際のところ、幾らかの心得はあるのだらう。でなければ、どれほど安全とは言つてもさう何度もあの冷たい台には上がれまい。そしてまた、オキーフはこの男の“興味”を検証するための被験体でもあつた。旧世代型は吐いて捨てるほど嫌ひだが、術式の開拓にはその嫌悪を上回る関心があるらしい。幸ひ、第2世代から第9世代といふ飛び級は、今のところ上手くいつたやうだ。視界も明瞭クリアだし、神経伝達も円滑、メインシステムとの接続は何の問題も無く、バレンフラワーは手足のやうに動いた。以前のやうな鈍痛、耳鳴り、プラグアウトする時の意識コードの明滅は全く無かつた。ひとりでゐる時にどこかに行つてしまひさうな、あの遠い感覚も無かつた。結構なことだ。眼の前の男のしてゐることは傍目にも「善い」とは言へないが、事実として、オキーフは男の凄惨な努力の積み重ねに救はれた。俺はまだ死にたくない。死ねない。理由は無いが……瞬間、オキーフはそれが、とても人間臭いと思ひ、微笑した。
「気分が良くなつた」
 ひつそりした忍び笑ひに、ぱつと手を放され、支へを失つた頭部は再びうなだれた。
 こんな時、ルビコニアンならコーラルをキメたい、と思ふだらう。物欲しくなるだらう。このアーキバスの廊下でだつて、時々そんな虚ろな瞳を見る。だが人を捨てて、自分を捨てて、どうするんだよ。もがく、苦しむ。うんざりする。うんざりするが、俺たちは人であり、人であることの感覚を愉しむのが、この人生せかいだ。世界は退屈させまいと……例へば、人間をやめることさへ辞さない男を登場させたりする。俺の上官といふキャラクターで。


「俺は寧ろ聞きたい。
 あんたはいつもどうやつて目覚める? 煌々くわうくわうとした希望を持つて、はつきりとした自己意識で今日といふ日を紡がうと、そんな精力で満ち溢れてゐるのか? 俺は……“調子の良い”強化人間つて奴を見たことがない。
 思ふに、あんたは自分が理想的な人間と自負してさうだ。答へてくれ」
 曖昧で人間的な問ひ。スネイルは常に、答へを出すだらう。完璧な回答を「用意」してくれる存在を、オキーフはもうひとつ知つてゐるが、相手が人間といふだけまだマシに思へ、心底ほつとして、内容なかみが何であれ、笑つてゐられる気がした。――まだ人間ひとのやることなら、たかが知れてゐる、そして、手が届くのだ。その距離の愛ほしいこと!
「覚醒は覚醒です」部下の問ひに、上官は真面目に応へた。「中断した作業を遅滞無く再開できること、あるいはすぐさま新規の着想に取り掛かれること――それが正常です、オキーフ。
 貴方は自分の意思とシステムの状態を混同してゐますね――良くない兆候だ。凡庸ぼんような例とも言へるが」
「何とも人間らしいぢやないか、スネイル。あんただつて、虫唾が走る誰かを引つぱたきたくなる時はあるだらう、例へば、旧世代型との下らないお喋り」
 その時、通信が入つた。スネイルが些事と呼ぶやうな報告だつたが、価値の精査には、情報の大本ソースである張本人が出向かなければならなかつた。スネイルは青い溜め息を吐き、熱の失せた視線を「再利用リサイクル」品へと落とした。
「問題が無いなら残つた仕事を片付けなさい、ヴェスパー3。貴方の調整は、その後です」
「お手柔らかに頼む、閣下」
 上官がドアの向かうに消える。
 オキーフは触れられた箇所を自分でもなぞり、またにやけた――ああ、何も聞こえない、無茶苦茶な指示も、自分を呼ぶ声も! 透明だ、透明だ――! 今はただ、上官へのナンセンスな御託きもちが浮かんで来るだけだ!
 もはや何人なんぴとにもうんざりさせられることはない、自分以外には。
 解放リリースされた脳で、もう一度、人間ひとの残り香の漂ふ空気を吸ひ込むと、オキーフは歯を食ひ縛り、枕に顔をうづめた。