「なんで醉へないかな……全く……」
ホーキンスはくびれた甁に口を付けた。術後、味覺は失はずに濟んだが、アルコールに對する處理能力は「發逹」してしまつた。ストレスの對處法として健全な手段、例へばメンテナンスプログラムを走らせるとかVRで憂さを晴らすとかいつたことが望ましいと分かつてゐても、彼は昔ながらの方法に賴りたくなる。
「出擊5時間前に飮酒とはけしからん」
ぱつと燈が點いた。今日は隊服のお陰で、第7隊長には多少の威嚴があつた。「指導の對象だぞ」
ホーキンスはソファの脚に背をもたれ、床にべたりと坐つてゐた。ここが共有の事務室とは氣付きもしないまま、彼は人氣の無い場所に逃げ込んでゐた。道理で冷たく、寂しげだ。
「……刺激劑が必要か?」うなだれたホーキンスに、スウィンバーンは身を屈めた。「なら手配……」
「必要なのは飮み仲間さ」
「まるで醉つ拂ひだな。見損なつたぞ」
「お前に目を掛けられてもな」
ふん、とスウィンバーンは鼻を鳴らした。「いいからそこをどけ」
いつからお前の特等席になつた? さういつた惡態は飮み込んで、ホーキンスは時間が流れるに任せた。自意識の强い臆病者は、沈默に押し殺されるのが恐いのだ。
「私も閑ではないのだぞ!」
ホーキンスがてこでも動かない、と分かると、スウィンバーンは澁々出入り口に近いコンソールに端末を繫いで、仕事を始めた。いくらかファイルを弄つた後、「それで」と彼は自分の膝を指で小突いた。「コーラルでも欲しいのか?」
「まさか!」ぽかんとしてゐたホーキンスは飛び起きた。「そんなわけないだらう!」
「ぢやあなんだ? 酩酊した振りなどして……非常に氣味が惡いぞ、貴樣」
「お前に言はれたかない……」
「大層な『獨り言』をここで言つたとしてもだ。なに……誰も聞いてはゐまい。言つてみろホーキンス、貴樣にも溜め込んでゐるものはあるだらう」
急にスウィンバーンがにやにやし始めた。本當にこいつは厭らしい奴だ、ホーキンスは心底彼が嫌ひだつた。
第5隊長は目を閉ぢた。第7隊長は地獄の窯を搔き回してゐる獄卒だ。しかし、自分の口で言ふことに意味がある。
「調整を受けたい……」
シンプルな獨白が、空間に染み渡つた。
「よおくわかつた」スウィンバーンは端末の上で動かしてゐた手を止めた。「貴樣の皆勤賞もここで潰えるわけか。まあ妥當な理由ではあるが」
皆勤賞。そんなものがあつたこと自體知らなかつた。誰かさんが襃賞をくれた覺えが無いからだ。
「作戰は? 私なしでやるつてのか?」
「貴樣には補佐官がゐただらう。備品の警護もできないやうな役立たずなら、ヴェスパー8は返上だ」
まあ、惡くないか。ホーキンスは肩の荷が下りた氣がした。新人とは言へ、今自分には第10世代の部下がゐるのだ。なんとも賴もしいことぢやないか。耐久力に不安はあるが、後方のMTを少し足せば問題ないだらう。いざとなればメーテルにでも……
ホーキンスは甁を摑んだ手に力を込めると、重い腰を上げた。ペイターに指示を出さなければならない。調整の豫約を取らなければならない。……この前調整した時はどんなだつたか。腦が映像を再生する。ここで作戰を辭したとして、自分は眞つ直ぐ診療臺に向かふだらうか?
「ホーキンス」スウィンバーンは丸まつた背中に呼び掛けた。「再手術」
「しない」
それも、この第7隊長に辟易することのひとつだつた。にもかかはらず、アーキバスは賞讚すべきなのだらう。
決意が搖らがないうちにここを出て行つてしまひたかつた。だが、衝動は口をついて出た。
「去年は?」
「18人」
「彼も含めてか」
「さうだ」
ホーキンスは溜め息を吐いた。スウィンバーンがどんな甘言を用ゐてゐるかは知らない。しかし、部隊に借金をしてまで再手術を受ける隊員は跡を絶たなかつた。その中には隊長すら含まれてゐた。ここで「うん」と言へば、スウィンバーンは喜んで手口を披露してくれるのだらう。普段の因緣も忘れて。だが、彼は「うん」と言へなかつた。この件が第2隊長と淺からぬ關係を持つてゐることは明らかだつた。決してスネイルは、彼の“損失”を惜しいとは思はないだらう。このスウィンバーンも。手心を知らぬからこそヴェスパーはヴェスパーたりうるのであり、こんな心情にあつても、彼は部隊の搖るぎなさを感じることができた。相反してはゐるが、矛盾はしてゐない。
再手術。ニューエイジ。
「賴むからメーテルはやめてくれ」
「ん? ……」
スウィンバーンは生返事をした。ホーキンスはメーテルリンクとの關係を誰にも話したことは無かつた。時折、第7隊長は關心があるやうな素振りを示すが、實際に問うたことは無かつた。知つてゐるのかもしれないし、知らないのかもしれない。いづれにしろ、直接的な利害に結び付かないなら、この隊長は個人的な事情に踏み込まなかつた。同時に、踏み込ませもしなかつた。
「私が見る限り、その必要は無い」
つまり、さういふことだ。メーテルリンクは再び、澄まし顏で彼のもとを訪れるのだらう。いや、そんなことすらしないのかもしれない。ヴェスパーに入隊してからのメーテルリンクは、常に他人行儀だつた。それは隊長としての線引きだが、あの日からずつと、ホーキンスは大事なものを置き去りにしてきたと感じてゐる。誰にも判らぬことだ、問題なく動き續けるものが、正常かどうかなど。
「あれはスネイル閣下の次に丁寧な仕事をする。自立し、禮儀正しく、周到で、從順、貴樣には目を掛けられ、閣下にも氣に入られてゐる。私は滿足だ。使へる」
ホーキンスは上官として、スウィンバーンの言葉以外に、メーテルリンクをどう評して良いか分からなかつた。
「良い子だからさ。無闇に手術は受けて欲しくない」
「貴樣はシックスを理解してゐないやうだな。關心事なのに?」
スウィンバーンの疑問は尤もであり、だから、ホーキンスのことは理解してゐなかつた。ホーキンスはスウィンバーンを恨めしくもあり、羨ましくもあつた。メーテルリンクを哀れむ道理はひとつとして無い。哀れみは彼の記憶にある。ねぢ曲げられ、交差して、正しい姿を留めることのない記憶……
「餘計な詮索は身を滅ぼすぞ。貴樣には利用するといふ欲すら無い。一體貴樣と奴になんのメリットがある……」
これもまた詮索ではあるが、とスウィンバーンは口を閉ぢた。ホーキンスもまた、反射的に開き掛けた口を閉ぢた。なぜ再手術をしないか、互ひに聞いたことは無かつた。
代はりに彼は話題を變へた。
「私はいつも思ふんだよ。お前は人の望みばかり聞いて、賣り付けた恩を帳簿に付ける、厭らしい奴だつて。なぜさう感じるかと言へば、手の內が見えないからだ。……お前の望むものが分からないからだ」
スウィンバーンはさりとて反應を見せなかつた。ただ答へた。
「私に欲しいものなんて聞くな。……失敬だぞ」
ホーキンスには「卑怯」の言葉がしつくり來た——だが、逆に問はれたとして、自分は何が言へただらう?
ふたりとも長い間、他人のために必要なものを用意してきた。いつの間にか、欲求することを忘れてしまつた。地位を渴望するとして、命をここに留めるとして、それは何をするための時間稼ぎだつたのか。ふたりとも大して、欲しいものなど無かつた。それよりも次の作戰が何を必要とするかが氣になつた。これは習慣であり、使命であり、存在意義、業であつた。
スウィンバーンは話題を戾した。
「いいか。本社になど行くと……手術を『檢討してゐる』と口にする奴らはごまんとゐる。他人や金や地位や壽命のためにだ。奴らは手術をすれば何かが付加されると考へてゐるが、それは違ふ。私たちは殘つたものだ。ACの操縱に必要なものしか殘らない。この身體は手取りだ」
スウィンバーンが强化人間をどう捉へてゐるか聞くのは初めてだつた。そして尤もだ、とホーキンスは思つた。强化手術には何も期待すべきでない。
「さうであると知りながら、お前は他人に推奬するんだな? 思ひ上がつた期待をぶら下げて?」
「肉體といふ原價に對してどの程度の利益を見込むか、それは各位の頭で考へることだ。スネイル閣下がご無事でゐられるのは……謙虛であるからに他ならない」
「よく言ふ」
謙虛。まるで緣の無い言葉だ。あいつの入社以來そんなものを感じたことは一度も無かつた。それは計算高いことの綺麗な襃め言葉に過ぎない。その裏の醜い犧牲は、成功といふ輝かしい光の下に見えなくなつてしまふ。
石橋を叩いて渡らない奴らは愚かだ、といふ聲が今にも聞こえる。スネイル、スウィンバーン、そしてメーテルリンクは、堅い手でかうしてここまで生き殘つてきた。ホーキンスもそこに竝ぶが、その橋は渡りきれないと、彼は認識する。
「時間の浪費は許されない」スウィンバーンは手を叩いた。今度こそお開きだ。
「私は金を工面するためにここにゐる。再手術でもなんでも、金に困つたら私に言へ。個人的にも貸してやれるぞ。破格の條件でな!」
誰が借りてやるものか、馬鹿野郞。
ホーキンスは胸に溜まつた毒を出すため、ガレージに急いだ。
願はくば、この獄卒が冥土の渡し守でないやうに!