初めてしたのは確か十五の時で、相手は年上の女だつた。不意にテーブルの下に手を廻すと、銃が備へ付けてあり、ゾッとしたのを憶えてゐる。
オペレーターと寢た事もある。それも自分のではなく、僚機のと。依賴主の臨時基地、壁に貼り付けられた、靑ざめ擦り切れた旗。相手の顏は、何だか靄が掛かつたやうだ。俺たちは夜遲くまで……何をしてゐたんだつけ？ 確か彈藥の……難しい勘定だつたのは憶えてゐる、その女が一つ一つ書類の項目を讀み上げていつて、偉さうに言ふのだ。自分らが何に關はつてゐるか、アーク任せではなく、自身で知つておくべきだと……。ああ。恥づかしいな。その時の嗅覺が、今、突然刺戟されたのだ。俺はその祕め事を、內心馬鹿にされないか、周りに氣取られやしないかそはそはしてゐたが、世の中には俺より酷い有樣で仕事に掛かる奴もゐて、誰が誰と何をしようが、この世界では何でもない事なんだ、と知つた。タブーは裏切りとへまだけだ。すなはち自分の死――。
擦れ違ひ樣のほんの數秒、シャンプーだか香水だかの匂ひを嗅ぐと、妙に顏が熱くなつた。ガキぢやあるまいし――しかしそれは女への未練ではない。何か、事實。ある一定の。
吐き氣が込み上げ、俺は踵を返して、便所に向かつた。幸ひ誰もゐなかつた。個室に入り、便器に手をつく。鼻がつんとする。口を開けるが、何も出てこない。昨晩、レーションを一口齧つたつきりだ。それでも何かが出さうな氣配がして、結局唾を落とすだけに留まつた。……何でもない、何でもない、こんなのよくある事さ。自分はまだ藥を必要としないだけましだ。人とか、⻝べ物とか、仕事とか。一見まともさうに見えて、皆何かに依存してゐる。特に、“優秀”と言はれる奴ほど……。煙草、ドラッグ、アルコール、この施設の中でさへ、それらを見ない事なんて無かつた。規則には禁止の有無、許容量も記されてゐるが、そんなものあつて無いやうなものだつた。こんな風に便器に手をつくのと、依存物質でいつでも溫厚になれるのと、どつちが慘めなんだらう？ 非喫煙者だと言ふと、決まつて笑はれてしまふ。何らかの道德や信仰があるわけではない。ただ……それは體に毒なのだ――そんな事を言ふと、「今にも死にさうな仕事してるのに」と“まとも”な連中は言ふ。ああ、どうせ死ぬんだから、充分に謳歌せよつて言ふんだな？ 俺は死ぬつもりで金を稼いでゐるわけぢやない。何で死と隣り合はせにまでなつて稼いだ金で、自分に毒を盛らにやならんのだ？ ……
ドアに手をついたら、ふはつとバランスを崩して、洗面臺に頭をぶつけさうになつた。くそ。鍵まで掛けてなかつたつてのか。
床に觸れてしまつたので、仕方無しに手を洗ふ。ペーパータオルを蓋付きの屑入れに押し込むと、不意に隙間から血の付いたペーパーが見えた……。怪我人がゐたのだらう、といふ思ひと、喧嘩でもしたのだらうか、といふ考へが浮かんだ。暗い廊下。擦れ違ひ樣。
ある日、よしや良いのに、腕つ節の强い奴に嚙み付いて賣り言葉に買ひ言葉で、すぐさま拳が飛んできて、俺はアークのトイレで、血を洗ひ流してゐた。鼻の骨が折れたかもしれないと思つて、淚さへ溜めてゐた。レイヴンになつてから半年も經つてゐなかつた。今思へば滑稽である、死ぬ覺悟を決めて選んだ仕事で……たつた骨の一本や二本折れる事を氣に病んで淚ぐむなんて。でも、それまで本氣で毆られた事なんて無かつたし、何より俺に過失なんて一つも無かつたのだ。それがショックだつた。いくらアークが――レイヴン連中が粗暴だからといつて――そんな無秩序が通るかと思つた。俺が馬鹿だつた、といふ自責と、いやあいつが憎い、殺してやる、アリーナか、ミッションで恥を搔かせてやる、といふ呪詛と――そしてそれを實行してゐる奴のゐるのがこの世界――急に恐ろしくなつて、俺は泣いた。雜に差し出されたペーパータオル。女の微笑みはこれ以上に無く優しかつた。なぜ男子トイレにゐるのかなど氣にも留めず、そのペーパーで鼻をかんだ。その瞬間にそいつとの關係を期待してしまつたのだから……俺は馬鹿だ、本當に馬鹿だ。
「馬鹿だ」
聲に出してゐた。俺は何に動搖してゐたんだらう？ 何が切つ掛けでこんなセンチメンタルに浸つてゐるんだらう？ やつぱり一連の、特攻兵器の“災害”が⻝ひ込んでゐるといふのだらうか？
尻ポケットに差してゐた端末を手に取つた。畫面には細かな傷が付き、角は缺け、ボタンの印字は擦り切れて消え掛かつてゐたが、直にアライアンス製のものが支給されるといふ。所屬の際さう說明した兵士は、締め括りに、望むならカウセリングが受けられる、と言つた。無料で。內心では冗談ぢやない、と突き放したが……。ああさうだ。そんなものに罹るレイヴンなんてをかしい、壞れてなんぼぢやないか、死の淵にゐる兵士つてのは？ アークや、ミッションで見てきた事を思ふと、さう感じてしまふ――柄にも無く？ 今となつては、自分が冷酷な――とどのつまり、レイヴンらしく振る舞へてゐるかどうかも判らない。そのレイヴンらしさとやらを體質にしなければ、生きられないものだから――多分、「レイヴンになる」とはさういふ事だ。この稼業から足を洗へた奴を、俺は死んでいつた奴ら以外に知らない。
何だか時間の流れまでをかしくなつたみたいだ。三時に差し掛かつた⻝堂は薄暗いが燈は點いてゐて、でも、自分一人しかゐなかつた。もう少しすれば夜勤から解放された兵士、あるいはこれから任務に掛かる兵士がぞろぞろと集まつてくるだらう。奴らの欠伸を嚙み殺した、間拔けな顏……。當然ながら元から企業が保有してゐた兵士ばかりで、かういつた“共同生活”が得意なやうではあつた。勿論中には安全を求めて傭つてもらつた奴らもゐて、この飾り氣は無いが歷史と物量の嚴めしい集團に圍はれる――といふよりも匿はれる――事に安堵してゐるやうだつた。自分もどちらかといふとその口で、慣れはしないが、不滿よりも安心の方が勝つてゐる。アークから逃れた奴の中には適應できない奴もゐて、早々社員の胸倉を摑んで出て行つたといふんだから、人の居場所なんて知れたもんぢやない――俺がここに來て初めて――あるいは改めて――知つたのは、人は群れてゐると、安心ができるといふ事だ。當の鴉でさへ、實際は群れを成して生きてゐるのだから。何とも心溫まる話ぢやないか、なあ。
備へ付けのサーバーでコーヒーを受けると、適當な席に坐つた――と、そこで、やつと俺は“一人”ではなかつた事を知る。ちぐはぐに置かれた椅子のせゐで氣付かなかつたが、奧の長椅子で誰か寢てゐるのだ。じつと見て、その毛布の塊が上下に動いてゐるのを見て、ほつとする。いや、案外に、そのまま冷たくなつてここに置かれてゐたとしても、をかしな事態ではないのだ。俺は靜かに、靜かに、浮かし掛けた腰を下ろした。そいつを邪魔するつもりも無いし、自分も邪魔されたくないから。俺は誰の何の邪魔もしたくない。熱いコーヒーを啜ると、やうやく生きた心地がした。どうやら基地の冷え切つた空氣が、惡寒を催してゐたやうだ。節電の爲、空調や電力は極力低く設定されてゐる。俺の私室は自由に設定できるし、一應は體を勞る事を許される地位に就いてゐるが、それでもさうしなかつたのは、節制しなければといふ責任感からといふよりも、それくらゐ耐へられるといふ意地からだ。つまらない、と思ふ。「戰術部隊」が編成されると聞いた時、當然、レイヴンである自分も驅り出される事は解つてゐた。でもエヴァンジェの口でもつて、「君が副官だ」と言はれた時の驚きと言つたら。それをあの人は、ブリーフィングする時の坦々とした口調で、簡單に言つてのけた。知らされたのは發足式の當日で、勿論、招集された兵士の中ではざわめきが起こつた。後で聞いた話ぢや、プリンシバルがエヴァンジェに⻝つて掛かつたつてことだつた。そりやさうだ、誰がどう考へたつて、上位ランカーの彼女が副官になるのが筋つてもんだ。それを、俺みたいな……レイヴンになつて數年の輩を。でもそれを言つたら、エヴァンジェ自身もさうぢやないか？ ――ああ、さうだとも、地位とか經驗とかぢやないんだ、實力が總てなんだよ、レイヴンは！ ――さう考へてしまふと、あのタイミングでアークを離反して企業に付いたエヴァンジェのコネクション作りは……ああ、完璧だつたといふ氣がする。あるいは、彼は知つてゐたんだらうか？ この“災害”が起こる事を？ それも又噂の一つではあつた……エヴァンジェが災害の核心に觸れてゐるのではないかといふ……
「なんて顏してるんだ」
「……」
「スパー……スパー？」
今、俺はそこに誰かがゐる事を知つた。
「隊長！」
思はず立ち上がつてゐた。敬禮までしてゐる。どういふわけか、この人の前では縮み上がつてしまふ――年は差ほども違はないし、レイヴンとしては俺の方が先輩なのに。
「ご苦勞」
と、相手の方も、俺に合はせて敬禮し、あまつさへ微笑んでゐる――これだ。多分、俺はこれに弱いのだ。なんといふか、色男といふのもさうだし――レイヴンに似つかはしくない、愛想の良さ。これが人を惹き付けるのだ。それでゐて、然るべき場所では斷固とした態度が取れる。これで惚れない奴がゐないし――何より、彼よりレイヴンを長くやつてゐて、それができない自分が恥づかしい。だから俺は三流どころか底邊どまりなんだ、と思ひつつ、それが限界なのだから仕方が無い。でも、自分より優秀なこの人が選んでくれたといふ事は、見込みがあるといふ事――さういふ希望を抱いてゐる、俺は。彼からの――他人からの評價が自分の軸となつてゐる事が癪に障りつつ、しかし心が浮き立つ事を抑へられない。
どうぞ、と椅子を引くが、彼は依然立つてゐて、俺の背後を捉へてゐる。俺も振り向く――
「貴樣ッ」
「どうも」
さつきからそこで寢てゐたのは、お前だつたのか！ 奴は體を起こし、毛布を卷き付け、頭を搔きながら、空いた手をこちらに振つてゐた。
隊長は腕組みをした――
「さてカドル、私はお前に何と言つたかな」
奴は前髮を摘まみながら「ええ……何と言つたでせう？」
「オペレーターに始末書を書かせるのは止めろ。お前は自分のした事が解つてゐるのか？」
「そいつに答へられたら、帳消しにしてくれるんですね？」
こいつ、と齒を立てたところで、彼に制された。話を聞く必要なんか無いのに……時間の無駄なだけなのに……
「解つてます、解つてます――大事な積荷を吹つ飛ばしちやつて、それから――ありや敵がいけないんだ、前に立つから――お偉方がお冠で、隊長が尻拭ひ。でせう？」
「……それだけか？」
モリ・カドルは兩手を擴げた。「他に？」
「お前は輸送部隊を囮にしたさうだな――それどころか、援護までさせた。本來お前が援護すべき相手に！ 今回の件だけぢやない――組んでやれば一人で突つ走る、かと思へば敵を引き付けて泣き付いてくる。お前は――お前は、足手纏ひでしかない」
「はい」
顏を見れば不服な事が判る。ふてぶてしいといふか、なんといふか……本當に、腹の立つ奴だ。こいつは――
「お前は、部隊の癌だ」
すらりと出た言葉。浮かんだままの本心であつたが、いざ言葉にしてみれば、實に毒々しく響いた。俺はこんな風に、他人に毒突く事はほとんど無かつたが、なるほど、心の中で思ふのと、實際に口にするのとでは、かうも違ふのか。
「癌、か」
隊長がぽつりと言つた。言ひ過ぎだつたか、とひやつとしたが、特に咎める風でもなかつた。カドルは立ち上がり、毛布を引き摺つて、コーヒーサーバーの前まで行つた。
不意に隊長が背を向け、俺は冷めたコーヒーをほつぽり出して、席を立つた。
それから、と彼は去り際に、取り殘した男に向けて手を上げる。
「五時半！ 執務室！」
「……寢てるよ、そんな時間」
――全くもつて、口の減らない奴！
「癌と言つたな」
時計は、五時十分を指してゐた――ああ、十二時間前には奴もここに來てゐたんだ、と思ふ。豫吿通り寢てゐたかもしれない。あるいはマネージャーか取り卷きが來て、話の筋だけ通したのかもしれない。
「癌は切除しなければならない、だらう？」
つまり……。喉が鳴つた。かういふ感覺、かういふ展開を、何と呼べば良いのだらう。この數年で學んだ、嵐の前觸れとでも言ふべき前兆を感じ取ると、今みたいにぞくぞくする。獰猛な殺し屋としては喜ぶべきなのだらうか？ 彼は、その――標的がつまらないとしても――重要な任務を、俺に任せてくれるといふのだらうか？ 氣持ちが良いやうな氣もするし、感觸の良いものではない、といふ氣もする。當然か？ それとも「人殺し」に忌避感を覺えるのは、異常なのだらうか？ ここは意地でも血の氣が盛んであるやうに振る舞ふべきだらうか……。今になつて新人レイヴンみたいな事を浮かべる自分に、反吐が出る。
「隊長、その役は私に――」
「うん？」
彼は椅子をくるつと廻して窓の方を向き、ブラインドを少し引いた。夕陽の紅い線が、室內を射す。それが一瞬レーザーのやうに俺の顏を舐めていつて、思はず眼を瞬かせる。
「あついな」
は、と空調のパネルに手を伸ばさうとする俺に、彼は續ける。
「時々この燒けるやうな陽が、血を浴びてゐるやうに感じる」
俺の手は留まる。
「血を浴びた事は？」
「ああ……はい、まあ」
“浴びる”ほどではない――ちよつと跳ねたくらゐならある。二十歲になつた時か、彈が吹つ飛んできて――ビルの警備MTの流れ彈だつた――たまたま通り掛かつた奴の――首を振つた。
「今月中にも、モリ・カドルはこの部隊から消える。次回の補給部隊と一緖にな」
「え？」
「本部の方から申し入れがあつた。どうやら連中は……好きに使へるACが欲しいらしい」
「つまりその……あいつは始末しないんですか？」
彼はブラインドの紐を弄くりながら、半分だけキキイと椅子をこつちに廻した。「殘念ながらな」
「……」
「殺したかつたか？ あいつを？」
「えッ――！ それは――それは、アライアンスにとつて障碍になるなら……奴はあの通り部隊に適應できてませんし……いつ裏切つても」
「あれの後ろ盾は企業しかゐない。ACも、企業の力無しでは、動かせまい。
私もあの生意氣な鼻の一つや二つへし折つてやりたいがな、貴重な戰力である事は確かだ。あれでも一應は……」
“あの機體を動かせるしな”？ この人は、あの機體――ピンチベックを――デュアルフェイスの模倣を、快く思つてゐない。カドルの規律を亂す行動もさうだが、機體の模倣も又、生き殘つたレイヴン、そして“トップランカー”を知る人々にとつては苛つく事で、それが元の諍ひも度々起きてゐた。確かカドルがアライアンスにやつて來た時に――といふのは、語弊があるかもしれない、俺はあれの出自を知らないのだ――隊長は別のアセンブリを提案したと聞く。それでも奴は頑なに拒否し、嘗ての榮光を讚へる機體で、數々の醜態を曝してきた。あの機體が戰場にあるだけで、目立つのだ――“デュアルフェイス”目當てにやつて來た奴らがどれだけゐただらう？ 實際のところ、俺は肩を落として去つて行くレイヴンを一人は見たし、アライアンスがその男を隱してゐると思つてゐる連中も少なからずゐる。俺はその事を思ふ度に、溜め息が出るのだ……いや、トップランカーとは個人的に付き合つた事も無いし、特別ファンといふわけでもないのだが。
見たところ、エヴァンジェは單純に强さの確認としてアリーナを利用してゐたやうだ。それについて個人的に話した事は無いが、地位よりも能力に關心のある彼の性向を考へれば、想像は容易い。俺はと言へば、數字を見るのも厭で、眼を背けてゐたが……いや、いや、俺だつてあんなものは見た目だけと思つてゐるさ。高からうが低からうが、要するに生き殘つて、自分に必要なだけのコームを稼げば良いんだからな？
さう思へば、企業に飼はれてゐるモリ・カドルなんて。俺たちは自分で羽ばたく術を知つてゐる。だがお前はどうなんだ？ いざ籠の檻が無くなつても、飛ぶどころか、出る事すらできないんぢやないか？
……少なくとも、俺の方が翼ある生き物さ。
そんな事を考へてゐると、急に隊長がくつくつ笑つた。
「何です」
「いや、君をあいつにけしかけてみるのも惡くないと思つてな」
俺は姿勢を正した。「あなたの命令があれば、いつでも」
「奴は卑怯者だぞ。仕留められるか？」
「できます！」
彼は笑ひを引き摺つたまま、「ぢや、二時間後に奴の尻を叩きに行つてくれ。最後のミッションだ。私はその間に、別件を片付けてくる」
「それは？ ……私は愚かなので、具體的に命令して頂かないと、判りません。作戰中に、“紛ひ物”に流れ彈が當たつても？」
「任せる。君に」
ぎゆつと握り締めた拳は、汗ばんでゐた。胸がどきどきしてゐた。さうだよ、これだよ。あのイナゴから逃げる時もさうだつた。俺は死んだつもりだつた、そこを、“福音”が生かしたのだ。その福音が再び吿げてゐる、生きよと。任せてゐる、俺に運命を。
「あなたを失望させはしません」
「憶えておかう」
彼はブラインドをぱちんと下ろし、立ち上がつた。そして膝に載つてゐたものを二つに折つて、俺に差し出した。あの、愛想の良い微笑み。
共に執務室を出て、姿の見えなくなつたのを確認すると、俺はごみ箱の蓋を取り、まだ溫い毛布を、拳で押し込んだ。