His Home

 新しい朝。ここは世界の終末を生き殘つた者たちの集落コロニー。鳥が鳴いてゐる、陽が柔らかに射してゐる、心地良い風が、ペットボトルでできた手作りの風車かざぐるまを、からからと回してゐた。

 顏馴染みの兵士が還つてくると、人々はいつものやうに、溫かく迎へた。

 戀人たちは觸れるか觸れないかのキスをし、兵士は一歲になる娘を抱き上げた。ずつしりとした重み。溫かな肌。わきわきと動く手足。まだ名前は言へない。けれど、親たちは彼女を呼んでやる。マナ、マナ。父さん、母さん、言つてご覽。

「ジャウザー」兵士が娘をあやしてゐると、テントから年の離れた義妹が出てきた。八歲になつたばかりである。實際のところ、エリザよりユーリの方が彼を先に口說いてゐた。ユーリは小說に書き留めた落書きをジャウザーに見せて、姪つ子の成長ぶりを說明してみせた。それによれば、姪は畫伯の素質がある。ジャウザーは目頭が熱くなるのをこらへて、紙面に描かれた繪をじつと眼に燒き付けた。そして言ふ。「もらつても良いかな?」「描いたページだけね」破り取つて、しつかりと懷に入れる。絶對に、死せるときも離さぬやうに。

 コロニーの入口には、同輩の兵士が一人立つてゐた。無表情で、この幸せの最中の靑年を、どんよりとした目付きで見てゐる。エリザは氣の付くと、聲を掛けた。「あなたが彼の言つてゐた、ひねくれ者の同僚ね」同僚は答へなかつた。ユーリが足下に近付いて、言つた。「知つてる、“最强のAC”に乘つてる人でしよ?」袖を引つ張らうとすると、男は吠えた。「觸るな!」

 エリザは妹をなだめた。兵士には傷付いてゐる人がゐて、觸れられるのを恐がるのだと。ユーリは受け付けなかつた。人を恐がつて、人を守れるわけがない。でも、兵士がイカれてしまふのもわかる。戰場は危險で、恐ろしいから。をかしくなるのはその人が臆病だから。そこへいくと、ジャウザーは勇敢で、强くて、いつでも優しい。姉に先を越された今でも、ユーリはジャウザーが好きだつた。

 コロニーのリーダーのハウスキーが來て、ジャウザーと抱擁ハグを交はした。中年の片足は膝から下が無くて、松葉杖で身體を支へてゐた。特攻兵器が襲來した際、人々を逃がすために拂つた勇氣だ。元MTパイロットであり、戰場から身を引いたジャウザーが、再び兵士を志すきつかけにもなつた。彼らは互ひを眞に尊敬し、愛してゐた。

 ほかにも義勇兵をしてゐたときの仲間や、救助活動で拾つてきた人々、レイヴンズアークの元ランカーといふ者もゐた――が集まつて、彼に樣々を語り、笑ひ、勵ました。ジャウザーの生きる全てが、ここにあつた。

 やがて戀人たちは自分らのテントに入つて、靜かな時間を過ごした。彼女が彼になにかれようとすると、彼は物資を無駄にしてはいけないと言つて、斷つた。皆が必死に搔き集めてきた成果だ。「大丈夫よ、地下にはまだ半年分ほどあるんだから――その頃になれば、ね?」

 暖かな春の頃――それはいつだらうか。

「ごめん……こんな」

 エリザは微笑んだ。

 彼らは結婚を認められず、驅け落ちしてゐた。ジャウザーの兩親はミラージュの幹部で、エリザはクレスト領の、“貧しい”家庭で育つた。それがどれほどの貧しさか、卑しさか、といふのは、ジャウザーには解さなかつた。彼が彼女の兩親や姉妹、仲間たちに感じたのは、照れ臭いほどの親しさであり、自分が兩親へ抱いてゐた感情が、決して不遜なものでないと敎へてくれた。彼の兩親は當然、嫌がつた。金目當てだ、クレストのスパイだと頭から決め付け、絶緣を迫つた。彼は婚約者を充てがはれもしたが、逃げるやうにパイロットの訓練に明け暮れ、作戰の合間を縫つて密かにエリザと會つてゐた。「實力行使」をほのめかされたとき、彼はやつと兩親との緣を切つた。その矢先の特攻兵器の襲來。義勇兵ボランティアとして難民の救助をしてゐたが、獨力では限界を感じ、最終的に企業を、親を賴つた。娘がゐると言つても、親の反應は冷淡だつた。お前の子なのかとまで言はれた。なら檢査を、と提案したがその必要は無いと切り捨てられた。結局、企業の安全なシェルターに實の娘も愛する人も入れてもらへず、ジャウザーは時間のあるのを見計らつて、ここに「還つて」くるしかなかつた。戰ひに身を投じる心、眞の家へ。

 エリザはそつと、彼の腕に觸れた。「すぐ……戾るの?」パイロットスーツの彼を見てゐると、クレスト領にゐた頃、こつそり會ひに來てくれたのを思ひ出す。もつとカジュアルなデザインにならないのと言ふと、いや、これぢやないととんでもないことになるんだよ、と彼は言つた。全てが良い思ひ出だつた。これからも、そんな彼の姿を見續けるのだらう、彼女はジャウザーが戰ひに生きる人だと知つてゐた。大切な人のためなら、全てを投げ出せるのだと。

「う……うん」

 エリザの質問とひに、ジャウザーは聲を震はせた。戰ひに身を置くほど淚もろくなつていく彼を、彼女は心ごと抱き締めたかつた。せめてここが、彼の泣ける場所であればいい。戰場で前が見えなくなるなんてことは、あつてはならないから。

 ジャウザーは彼女に抱き付き、そして娘を抱いた。溫かい。この壓、この重み。生きてゐる。命が、ここにある。自分の命が! 初めて立ち上がる瞬間、口にする言葉、筆記する文字、見る風景、敎へてあげたいことはたくさんあつた。「嫌ひ」と言はれることもあるだらうし、好きな人だつて見つけるだらう! 彼はずつと、娘を感じてゐたかつた――永遠に、永遠に、永遠に――――!!!!

「愛してゐる……愛してゐる」

 娘の指が濡れた頰に觸れ、父は、慟哭どうこくした。


 やつとの思ひでジャウザーが輸送機へ辿り著くと、モリ・カドルが、彼を見下ろしてゐた。足の力が入らずに床に這ひつくばる男は、さながら赤ん坊のやうだつた。眼の周りは赤く腫れ上がつてゐる。

 モリは次の作戰の指揮官を任命されてゐた。それを聞いたとき、彼は喜んだが、內容を聞くと、途端にがつくりと來た。あまりにも單純で、あまりにも簡單な作戰。ACを出す必要すら無いかもしれない。勿論、それは“彼ら”の確認だつた――モリはただ意思表示をすればいい。そんな簡單な「作業」で、彼らの信用を得られるといふなら、安いものだ。彼は所屬するときの尋問を根に持つてゐる。目立つ機體を乘り回してゐたために、その機體と緣のあるパイロットとの關連性を疑はれたのだ。繰り返される同じ質問。測定器に掛けられ、暴力を振るはれ、一方的な條件の契約書に何度も署名させられた。元のIDは消されてしまつたし、その上與へられたレイヴンネームが“女々しい男モリ・カドル”だと? 他人の力にすがらうとする男には相應しいかもしれない。だが、ACの操作は間違ひ無く自分自身の力である。

 試驗官は、モリ・カドルに一定の素質を認めた――それは、このミラージュのぼんぼんを見てゐればよくわかることだらう。

「子供たちを集めて、シェルターでお話をするんです――まだ人類ヒトが地下にゐた頃のお話を。終はる頃には、きつと……」

「なに言つてるの? 全員つて言つたら全員だ」

 モリは顏をしかめた。こんな簡單な作戰に、こいつなんか要らなかつたのに。

「素人つぽいことすんのやめてくんない?」

 1159――1200でもいいし、1225でも、1234でもいい――でも、1300は駄目だ。

 モリは息を吸ふと、チャンネルを開いた。大きな赤ん坊の腕を取り、隣接する車輛へと引き摺つていく。

 ジャウザーは硬い床に爪を立て、天を仰いだ。

「神樣……!」


 新しい朝。ここは世界の終末を示す一片。鳥は向こうで羽ばたいてゐる、雲は地を覆つてゐる、薄ら寒い風が、硝煙と燒けたものの臭ひを運んでゐた。

 同じ恰好をした人々が、同じ道を一列に、蟻のやうに行進してゐた。蟻たちは地下から荷物を運び出し、自分たちの輸送車にそれを積載した。ときどき、焦げ跡の中に殘つたものを見てみるけれども、役に立つものは無い。

 1159――焦げ跡を眺望できる丘では、男が一人うずくまつてゐた。蟻たちの行進を見ようにも、前が見えない。下の地面は、色が濃くなつてゐた。

 モリ・カドルはその姿を認めると、男のけつを蹴り上げ、腹へ馬乘りになつた。

「うわああああッ!」

 大袈裟な悲鳴が、空氣を切り裂いた。モリはその頰を張ると、ややあつて、同じことをした。もう一度。次に拳で毆り始めた。男は泣き、わめき續けた。

 その樣子を何匹かの蟻が見つけたが、誰も止めに入ることはなかつた。

 血が飛び散つて、あざができ、蟲の息になつても、男は泣くのをやめなかつた――そしてまた、モリも毆るのをやめなかつた。

 赤く染まつた拳が、再び落ちる――

反吐が出る!」